
周辺の歴史
「多摩丘陵の歴史をたずねて」(ぽんぽこかわら版1998~2004)より
開発と農業
1998.5.15
多摩ニュータウンに暮らしていると、つい、ここはもともと「なにもなかったところ」だったという感覚に陥りがちではないでしょうか。
高畑勲監督のアニメ映画『平成狸合戦!ぽんぽこ』を見ると、そのような感覚が「錯覚」なのだと気づかされますが、多摩ニュータウンは、誰も住んでいない場所を開発したのではなく、山を削り田畑を埋めてつくられた街です。
そもそも、多摩ニュータウンの開発区域として指定された約3000ヘクタールにおよぶ広大な土地には、伝統的な農村集落が点在していました。「ライブ長池」は、当時の南多摩郡由木村大字別所の集落を中心に開発されましたが、この集落は江戸時代から多摩郡柚木領内に別所村として成立しており、『新編武蔵風土記稿』(天保元年・1830年完成)には家数27軒との記録があります。
東京オリンピックの開かれた昭和39年(1964)の時点 では、多摩ニュータウン計画区域の約3分の1にあたる 960ヘクタールが田・畑を中心とした農地でした(当時 の南多摩郡内農地面積の7割以上)。そこには、1143戸の農家(うち約半分が専業農家)が稲作、野菜作り、養鶏、養豚、酪農などを営んでいました。
当初の計画では計画用地内のすべての土地を全面買収して、住宅と公共施設、公益的施設でうめつくすことになっていました。結局、既存集落の住宅用地だけは残ることになりましたが。
農家のなかには、東京近郊で農業を続けることを強く 希望していたところも少なくなかったのですが、開発施行者は代替農地のあっせんをまったく行ないませんでした。用地買収に応じない農家に対しては、買収担当者が 「自分で土地を見つけて北海道へでも那須へでも行けば農業はできる」とか「柱にしがみついてたって、うちはやります」とまで言って、交渉を進めていったという話しも聞いたことがあります。
それでも、農業を続けるために、丹沢山麓や津久井などの遠方に移転した家もありましたが、ニュータウン地域内に住み続ける道を選んだ農家の方々は、開発にともない意に反して農業を離れたり、一時的に移転させられたりと、相当な苦労を重ねられました。
さて、多摩ニュータウンには、計画的につくられた便利さ、快適さもある反面、短期間に農業をなくし、いったん、「無産業地帯」をつくってしまったがゆえの暮らしにくさ(ふつうの街とのちがい)もあると思います。
これからは、以前から多摩丘陵に暮らしてきた人々と最近移り住んできた人々が手を携えて、多摩ニュータウンのあり方を探ることが大切ではないでしょうか。
民俗学でいう「開発伝承」によれば、多摩丘陵の相当古くからの農家には、先祖は後北条氏の家臣で、天正18年(1590)の小田原落城の後に鎌倉街道を「登って」多摩丘陵に落ち着いたという言い伝えが残っています。
そう考えてみると、多摩丘陵に暮らす人々は、時代や年数はちがえど、良好な環境をもとめて他から移ってきた人たちだ、と言うこともできるかもしれません。
さて、次回からこの連載では長池地区の街づくりの手がかりを探るという観点から、「あしもとの歴史」をひとつひとつ照らし出していきたいと考えています。
勝村誠と矢口祥有里が交互に担当しますので、よろしくお願いします。
保井寺と斎藤一諾斎の墓
1998.6.26
今年は明治維新のあった戊辰の年(明治元年(1868))から数えて130年。大河ドラマも「徳川慶喜」で、日本全国で幕末維新関連のイベントが目白押しです。
幕末の京都で、過激派浪人の取締りのため働いた新選組の創立メンバーには、この多摩地域の出身者が数多くいます。例えば近藤勇は現在の調布市、土方歳三や井上源三郎は現在の日野市域の出身です。また、この地の名主や豪農といった有力者のなかには新選組の創立当初から 彼らを支援した人が少なくありません。いわば、多摩は「新選組のふるさと」と言えるのです。
さて、今回は、保井寺(ほうせいじ)に墓のある、新選組ゆかりの人物、斎藤一諾斎(いちだくさい)を紹介しましょう。
斎藤一諾斎のお墓京王堀之内駅から北東の方向に歩くこと約15分。小高い丘を背にして立つ、龍澤山保井寺の本堂裏手の墓地に 斎藤一諾斎の墓があります。 斎藤は文化10年(1813)、江戸で幕臣の子として生まれ、仏門に入り、はじめ秀全と名のっていました。
斎藤が甲州郡内強瀬(こわぜ)村全福寺の住職だった慶 応4年(明治元年)、戊辰戦争が始まりました。3月、板垣退助率いる東征軍を迎え撃つため、近藤勇は新たに甲陽鎮撫隊を組織して、江戸から甲府城を目指し進軍して来ました。このとき、近藤たちから協力を求められて、すぐに承諾したことから、斎藤は「一諾斎」を名のることになります。一諾斎は還俗したのち新選組に入り、北関東、東北地方での戊辰戦争にも参加しました。
降伏後の斎藤一諾斎のくわしい足取りは分かりませんが、 明治3年4月には、中野村(八王子市東中野)の熊野神社の隣に当時あった金住院(きんじゅういん)に住んで、村内の子弟に漢籍・習字を教えるようになります。中野村ばかりでなく、近隣の堀之内村、大塚村(以上、八王子市)、和田村(多摩市)などからも、一諾斎の教えを受けに子弟が集まりました。一諾斎は、各村の寺院を足場に、これらの子弟を教えていたようです。
その年の10月、斎藤一諾斎は、いったん中野村を去り、都留郡宮谷村の正覚寺の住職になりましたが、まもなく、ふたたび中野村に戻りました。
保井寺境内明治5年8月に明治新政府により学制が発布されたのにともない、明治6年11月、中野村に生蘭学舎という学校が設立されました。一諾斎はこの学校の建設に尽力し、小谷田重助とともに訓導(教員)をつとめました。 それからまもなく、一諾斎は明治7年12月18日に、 62歳で病死し、彼を慕った子弟たちの手で、保井寺に手篤く葬られました。
さらに明治14年11月、かつての教え子たちが中心となり、斎藤一諾斎の顕彰碑が建立されました。この碑はいまも、御手の観音と呼ばれる清鏡寺(八王子市大塚)境内にあります。碑に刻まれた発起人や協力者の名前のなかには、林副重、井上隆治、柚木芳三郎など、自由民権運動にも関わり、地域の発展を志した人物の名が多く見られ、少年期の彼らに与えた一諾斎の教えや人徳がしのばれます。
保井寺も清鏡寺も、南大沢~聖蹟桜ヶ丘間を走るバス路線を使えば、移動が簡単にできる距離にあります。ライブ長池から歩いても半日とかかりませんから、ぜひ、どうぞ足を運んでみてください。
[追記]斎藤一諾斎について、保井寺副住職の藤浪保伸さまから色々ご教示をいただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。
由木村と吉田養魚場
1998.9.13
いなげや松木店の隣にガーデニングの専門店「グリーンギャラリー・ガーデンズ」があります。その裏手にある「ヨシダ・フィッシュファームズ」では、金魚、世界各地の熱帯魚やカメ、そして見事な錦鯉まで扱っていて、いつもお客さんが絶えることがありません。 これらのお店は大正10年に開業した吉田養魚場から発展したものです。その歩みを現会長の吉田八重子さんにうかがいました。
養魚場を創業した吉田定一は明治24年(1891) に由木村松木の吉田定次郎の次男として生まれました。 若いころは東京市電の運転手をしたり、朝鮮半島に渡るなどなかなかの野心家でしたが、魚釣り好きが高じて大正10年(1921)に故郷で養魚場を始めました。開業にさいしては、南多摩の酪農の創始者・井草甫三郎(明治25年に開業)の助言を受けたようです。井草は養鶏、養魚など由木の産業奨励に力をそそいだ先覚者です。
吉田養魚場では食用の黒鯉を生産していました。東京ではその草分けでした。松木の地は良質な湧き水に恵まれ、夏でも養魚池の水が干あがる心配がなかったそうです。八王子から料理屋の残飯をもらってきて、それに糠を混ぜて煮込んだものを餌にしていました。
定一の養魚にかける熱意に、子供たち(8男4女)の家内労働力の助けもあって、養魚場は一代で大きく発展しました。吉田の鯉は戦時中には軍隊や疎開学童の貴重なタンパク源になったとも言われています。
戦後、定一は由木村議会議員、議長などの要職をつとめ、キリスト教の布教にも力を注ぎました。
この養魚場を全国有数のものに発展させたのが定一の三男・吉田広でした。昭和20年代末から金魚の仕入れを始め、続いて錦鯉を扱うようになり、昭和39年には吉田観賞魚販売(株)を設立しました。昭和43年には(有)西東京観賞魚市場を開設、この時期は 全国で釣り堀が盛んだったこともあってブームにも乗り、週2回開く市場で1日あたり500万円ぐらいの 売り上げがあったそうです。翌44年には全日本錦鯉振興会が品評会を始めるにあたって尽力し、のちにこの振興会の理事長もつとめました。品評会はいまでも毎年、平和島の東京流通センターで開かれており、全国から4000本位の出品があるそうです。また広さんは錦鯉の飼育法について2冊の著書も残しており、鯉の普及に情熱をかけた姿がしのばれます。
その後、市場は流通量が減ったため平成3年に閉鎖、その年に広さんは63歳の若さで亡くなられましたがいまは奥様の八重子さんと息子さんたちが跡をつぎ、30人の従業員(パートふくむ)と一緒に意欲的な経営を続けています。高速交通と輸送技術の進歩もあっ て、いま吉田観賞魚では、山梨県石和の養魚場からベルギー、イギリス、シンガポール、アメリカへ鯉を輸出しており、国際的企業の顔も持っています。
さいきんは、昭和48年から始めた園芸・ガーデニング事業が徐々に比重を高めていますが、松木の湧き水を利用した養魚場は健在。いなげやの脇で湧く水を地中にパイプを通して養魚場まで引いており、澄んだ水が満ちた養魚池に大きな錦鯉が泳ぐ姿は圧巻です。
結びに会長からのメッセージ。「園芸や観賞魚のことならなんでもお気軽にお電話ください。庭のプラン ・デザイン・施行などなんでもやりますが、必ずお客さんが手を入れる部分を残すようにしています。」
八王子千人同心
1999.3.6/19
天正18年(1590)八王子城が落城すると、新た に関東の領主となった徳川家康は、甲斐武田氏の家臣だった小人頭とその配下を、八王子城下の治安維持と甲州道の警備のため、八王子へ配置しました。これが八王子千人同心の始まりです。その後2度の増員を経て、千人頭10人が率いる1000人の大部隊となったため、「千人同心」と呼ばれるようになりました。
千人頭の下にはそれぞれ10人の組頭と90人(寛政4年[1792]以降は80人)の同心がいて、1組が 構成されていました。千人頭は200~500石の知行を取る旗本ですが、組頭と同心は切米・扶持米を支給される御家人の身分でした。
現在、JR中央線西八王子駅北側に「千人町」という 町名がありますが、ここに千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷とがありました。組屋敷に住む90人ほどの同心を除いて、ほとんどの同心は八王子やその周辺の村に住み、普段は農作業に従事して幕府に年貢を納めるという、農民と変わらぬ生活をしていました。ごく簡単にいえば、生活を支える主たるものは農業であり、家族の中の誰かが千人同心を勤めて幕府からサラリーをいただいてくる、という具合です。
千人同心の公務の中で、最も重要なものが日光勤番です。これは千人頭1人と1組の約半数の同心が、半年交替で日光東照宮の火の番屋敷に詰め、山内の見回り、出火の際の消火活動にあたるのでした。
また、寛政12年(1800)には、千人頭原半左衛 門胤敦が弟新介とともに、千人同心とその子弟100人 を連れて蝦夷地(現北海道)に移住し、開墾と北方の警備にあたりました。彼らは白糠(現白糠町)や勇払(現苫小牧市)に入植し、道路開削なども手がけましたが、厳しい寒さと慣れない土地での農作業は、思うように収穫も上がらず、結局多数の死者を出して、この計画は挫折してしまいました。
現在、八王子市が苫小牧市・日光市と姉妹都市提携を結んでいるのは、こうした千人同心の縁があってのこと です。
幕末の嘉永7年(1854)に作られた「番組合之縮 図」によれば、現在の長池地区周辺には、19番組に属 する柚木村の青木綱五郎、井上坤三、井上兵五郎、中里 弥兵衛、落合村(現多摩市)の小山初蔵という同心がい たことになっています。
千人同心の中には、『新編武蔵国風土記稿』などの地誌編さんに加わり、地域の学問・文化の発展に寄与した者も多く、『桑都日記』を書いた塩野適斎や蘭学者の松本斗機蔵など、著名な人物も少なくありません。
やがて幕末になると、揺れ動く日本の政情にともなって、千人同心の近辺もにわかに騒がしくなります。相次ぐ将軍の京都上洛のお供や賊徒追討のための甲州出兵、 開港地横浜の警備、長州征討への従軍というように、公務が急増していきました。それまでの槍に代わって、銃や大砲など西洋式の軍事調練が導入されていき、慶応2 年(1866)には「千人隊」と改称されました。
慶応3年(1867)、大政奉還により事実上徳川幕府は崩壊しました。千人隊も解体することになり、千人頭は徳川家に従って静岡へ移住、中には新政府に出仕した者もいましたが、大多数は「脱武着農」、すなわち武士を捨て農民になる道を選びました。今も八王子とその周辺には千人同心の子孫が数多く住んでいて、貴重な古文書や資料を伝えています。
多摩は神奈川だった
1999.6.5
南大沢駅、京王堀之内駅周辺ににお住まいの皆さんの 住所は、東京都八王子市・・・・
ですね。でも、その昔、このあたりは神奈川県に所属していたことがあるのです。明治維新後、二十数年の間ですが・・・では、その間の様子を見てみましょう。
江戸時代、ご存知の通り日本は300余りの藩に分かれていました。これが明治維新を迎え廃藩置県で、まず、 1871年9月、3府(東京、大阪、京都)302県(!) に置き換えられました。もっとも、この時は代官や旗本の旧領のままで、多摩は品川県、韮山県、入間県、西端県(どこ??)に属していたとのことです。そして、 1871年11月、3府(東京、大阪、京都)72県に再編成されたときに、多摩は新設の神奈川県に属することになったのです。このころの多摩はおおまかに言って現在の山手線の西側すべてだったようです。当時の神奈川県のイメージは、ちょうど、今の神奈川県の上に現在の東京都の山手線の西側が乗っかったような形になります(頭でっかちの神奈川県?!)。
その後、1872(明治5)年に現在の中野区、杉並区など 多摩東部が東京府に分割移管され、今、私達がイメージする多摩に近いものとなりました。さらに、1878(明治11)年、郡区町村編制法が布告され、これにより多摩郡347町村は北多摩、西多摩、南多摩の三郡に分けられ、以来「三多摩」と呼ばれるようになりました。
このように多摩は神奈川県に属していましたが、その後、東京府民の飲み水である玉川上水を他県である神奈川県が維持管理するのはおかしいという理由で多摩を東京へ移管しようという動きが出てきました。そして、1893(明治26)年4月1日に東京府に移管されましたが、実際には、当時の軍備拡張政策に反対の立場をとっていた自由党弾圧の一つの手段として、その最大の地盤であった三多摩を神奈川県から切り離すための措置でもあった ようです。
このように、三多摩は約22年にわたって、神奈川県に所属していたのです。そして、「三多摩」の名は、今も例えば学童野球の「三多摩リーグ」等に使われており、なじみの深いものとなっています。
でも、ここにひとつ疑問があります。北、西、南多摩 はありますが、東多摩はどこにいったのでしょう? 実は、明治5(1872)年に東京府に移管された多摩東部が三多摩と同時期に東多摩と呼ばれるようになったのです。 この地域だけが東京府に属していました。東多摩は後に南豊島郡と合併して豊多摩郡となった(明治29年)ため東多摩の名前はなくなりました。
<参考文献>
・多摩100年の歩み(多摩百年史研究会編著)
・地図で見る歴史の舞台(帝国書院)
・市民のための八王子の歴史(樋口豊治著)
・多摩・東京-その百年(鈴木理生著)
足元に歴史があるということの不思議
1999.9.17
「俺達の足元に歴史があるというのは不思議です。」
これは、地元の酪農家、鈴木亨さんの言葉です。この言葉に表わされるように、私達の住む多摩丘陵は、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡の宝庫です。今回はそのころの多摩丘陵の様子を見てみましょう。
多摩丘陵の一角に人が住みはじめたのは、南関東では最も古い時期で今から5万年前といわれています。昭和62年稲城市坂浜のNo471-B遺跡から旧石器群が発見されました。これが、最古の多摩人の軌跡です。この時代の人々は、丘陵を移動しながら、動物や木の実をとって暮らしていました。しかし、その後、2万年もの長い期間、遺跡の存在ははっきりしませんでしたが、3万年前になると、再び丘陵上に旧石器人が姿を現します。そして、1万年より以前の旧石器群が、多摩ニュータウンの遺跡では100ヶ所以上も発見されています。
氷河時代でも最も寒冷だった2万年前、旧石器人は、その極寒の気候の中を生き抜き、多摩ニュータウン地域でもこの時代の遺跡が、大栗川流域の河岸段丘やゆるやかな丘陵尾根などに点々と残されています。
1万3千年前、大形動物が姿を消し、旧石器時代も終焉を迎え、縄文草創期に入ります。縄文土器の使用が始まると、食物の煮たきや煮沸ができるようになり、アク抜きや食糧の長期保存が可能になって、人々は定住するようになりました。このころ使われていた初期の縄文土器と局部磨製石斧(刃の部分だけを磨いた石の斧で縄文時代に使われた全面を磨いた磨製石斧の前身)が八王子市越野のNo796遺跡から発掘され、旧石器時代から縄文時代への過渡期の文化を示す貴重な遺跡として注目を浴びています。
約6千年前(縄文前期)には、多摩丘陵一帯で落し穴猟がさかんに行われていました。台地下の泥炭層からは植物の化石もたくさん発見され、今とは比べものにならないほど、豊かな森があったことが想像されています。その森が育むウサギやシカ等の動物、たくさんの木の実で思いの外、豊かな生活ができたようです。
多摩丘陵の集落が最も発展したのは、約5千年前からの縄文中期です。八王子市堀之内のNo72遺跡群では環状集落の全容が明らかにされました。この様子を牧場のおっさんこと鈴木亨さんのHPから引用します。
「関東地方でも有数の縄文時代の集落と墓が見つかったのだ。私の家から1kmも離れていないすぐそばで重大発見があった。以前、そこは小さな丘で町会会館の裏手の畑だった所で、大昔、たくさんの人が住んでいたらしい。大栗川流域で寺沢川が合流する所の西に山と川の幸に恵まれた日当たりの良い台地で多摩ニュータウン内では最も大きな縄文中期(5000年前)の村で中央広場の墓こう群(墓)があり、それをとりまくように竪穴住居が200軒も重なって出てきたという。そしてここから発見された縄文土器(祭りに使う仮面やふめがめや水差し)が他よりもたくさん、たくさん出てきた。それは今、多摩センターにある東京都埋蔵文化財センターに保管されている。私も興味があった。センターの人によればこの辺は他から比べると多くの人が住んでいたらしい、多摩丘陵の自然は地形が複雑で色々な植生が育ちやすい自然が豊富な所で最適な古代のニュータウンが形成してたらしい。そして今、この場所は貴重な遺跡を残すために土をかぶせて現状保存し、児童公園になっている。まだそんなに時間はたってないが忘れられつつある。出土した場所は八王子市堀之内でNo72遺跡群です。この集落は12軒の家族が700年続いたと考えられています。」・・・(牧場のおっさんHPから)
私も実際にこの台地の上に立ってみました。たしかに豊かな森と大栗川の恵みを存分に受けられる古代のニュータウンとしての条件を備えている場所でした。今でもタヌキなどが棲む多摩丘陵、そのころはどんなに豊かな土地だったのでしょう。
しかし、この多摩丘陵も縄文後期になってくると、遺跡が遠のいて来ます。稲作に適さない土地柄のせいか、弥生時代の遺跡はあまり見られません。
<参考文献>
・市民のための八王子の歴史 -樋口 豊治著-
・東京都の歴史 -児玉 幸多監修-
・牧場のおっさんホームページ
・多摩丘陵の遺跡 -東京都埋蔵文化財センター-
縄文ニュータウンから古代の工業地帯へ
1999.12.18
縄文時代の遺跡の豊富さに比べて多摩ニュータウンの弥生時代の遺跡はあまり見つかっていません。丘陵地帯で豊かな森はあるものの水田稲作に適した平地が少ないせいでしょうか。ただ、弥生文化は西日本で発生し急速に伊勢湾沿岸にまで伝わりましたが、そこから東日本へ浸透するまでには、な お、300年の年月がかかりました。東京地域が弥生時代に移行するのは紀元前後のころ、弥生時代が中期になってからでした。
弥生時代の中期から後期にかけて倭奴国王が後漢に朝貢したり、卑弥呼が活躍したりしましたが、東京地域では周囲に濠をめぐらせた環濠集落が形成されるようになりました。そして、環濠集落の成立とともに方形に溝をめぐらせ、その中央部に墓壙(ぼこう)を設けた「方形周溝墓」が出現します。 多摩ニュータウンNo.200遺跡(町田市)では、50基 の弥生時代の住居が分布し,丘陵からつきだした北側の支尾根上に5基の方形周溝墓が並んでいます。方形周溝墓からは 七連につながった鉄釧(腕輪)やガラス玉、鉄剣などが出土し、もてるものともてないものの差が確実に広がっていった ようです。
方形周溝墓は次の古墳時代になっても、しばらく作り続け られましたが、4世紀になると東京地方にも古墳が見られるようになります。このころに大和朝廷の支配下におかれたものと考えられます。やがて、大化の改新(645年)の頃に は、ここ多摩丘陵は一大窯業地帯となっていたようです。大陸から伝わった技術で須恵器を生産していました。その跡は八王子市堀之内のNo.446遺跡等に見られます。
奈良時代に入ると、大和朝廷は各地に国分寺を建てさせましたが、多摩丘陵からほど近い国分寺市にも武蔵国分寺が建立されました。そして、国府が置かれこの地方の政治、文化の中心をなすことになります。ここが国府に選ばれたのは、 太古より人々が住んだ豊かな土地であり、多摩川の両岸に一 定以上の文化があったことによるといわれています。国分寺の瓦も多摩丘陵で生産されました。稲城市の大丸窯、町田市 小山のNo.944遺跡1号窯等が知られています。さらに町田市小山の瓦尾根瓦窯では、相模国分寺の瓦も焼いていたそうです。同じ丘陵で双方の国分寺の瓦を焼いた珍しい例です。
私達が住む多摩丘陵に窯業が発達した背景には、窯を築くのに適した地形とともに良質な粘土がとれ、燃料となる大量 の薪が確保できることがあげられます。また、薪が確保できるということは豊かな森があったことを示します。そして、窯業とともに、多摩丘陵は木器の生産にも重要な位置を占めていました。例えば、No.107遺跡では奈良・平安時代の木器が大量に出土しました。木工轆轤(ろくろ)で挽き出された皿には、焼印で「官」や「位」などの文字が記された 例も多いとのことです。多摩丘陵は古代の国家を支える工業地帯として重要な地位を占めていたようです。そのような遺跡の上に我々17万市民が生活する新都市が形成されたことは、たいへん興味深いことです。
<参考文献>
・東京都の歴史 -児玉 幸多監修-
・牧場のおっさんホームページ
・多摩丘陵の遺跡 -東京都埋蔵文化財センター-
律令制度下の暮らしと次代への胎動
2000.6.18
律令制度下の租税は租・庸・調からなっていることは皆さんご存知だと思います。租は稲、庸は労役にかえて納める物資、調は租以外の生産物をそれぞれ徴収しました。多摩地方の調としての貢物は、次の歌にあるように繊維製品が主であったようです。
多摩川に さらす手づくり さらさらに
何ぞこの児の ここだ愛しき
この歌は万葉集の「東歌」に出てくるもので、多摩川のほとりに暮らしていた農家の娘たちが多摩川で布をさらして漂白していた様子が彷彿とされます。
これらの租税の徴収は当時の人々にとって決して楽なものではなかったと考えられます。しかし、人々を最も苦しめたのは防人の制度でした。北九州地方で西海の防備にあたる防人は、いつ帰れるかわからず、しかも、大半は東国の兵(兵役によって徴兵された人々)をもってあてられました(一説 によると逃げ出しても言葉の訛りですぐわかるためといいます)。徴兵されると難波津までの食料は自前で持っていかねばならず、家族構成によっては、働き手を取られて一家の生活が破綻することもあったようです。東国の窮状から防人制度は757年に廃止されますが、次には対蝦夷対策に狩り出されることになります。兵役だけでなく、多量の米などが陸奥・出羽に納入され、そのほとんどは東国にのしかかりました。しかし、国郡司がこれらの米を横領して私腹を肥やしたり、徴兵された兵を使って私田を開墾したりし、さらに東国の疲弊と合わさって律令制度は破綻に向かっていました。
この頃、多摩地方には御牧と呼ばれる牛馬の生産地がありました。931年には小野牧が御牧に指定されました。小野牧は八王子市由木地区付近に求めようとする説があるそうです。古代の牧は単なる放牧場ではなく、厩舎や各種の建物、工房、あるいは付属する牧田などからなる一大施設群であり、 各種の役割を持った人々が働いていました。こうした牧を管理する別当は、やがて在地に強い力をたくわえていきます。前述した律令制度の破綻をバックに、在地にたくわえた力で次代を担っていくことになります。
<参考文献>
・東京都の歴史 -児玉 幸多監修-
・八王子市の歴史 -樋口 豊治 著-
八王子に律令制はおよんでいなかった?!武蔵武士の登場
2000.9.29
律令制度下の八王子はどのような状況にあったのでしょうか。近年、律令制による治安は京都周辺で保たれたにすぎず、地方には律令制が及んでいなかったため、実質的な治安というものはなかったということがわかってきました。
八王子のあった武蔵国はとくに治安の乱れがひどく、「凶猾(きょうかつ)党を成し、群盗山に満つる」という状態でした。地方では律令制による治安などは、初めから保たれてはいなかったのです。
<自衛のための武装と「牧」の存在>
そのため、自分で開墾した田地を守るために誰もが自衛しなければなりませんでした。自衛とは、武装すること、そして騎馬用の馬を確保することでした。
ここ多摩丘陵には、国家が直接に経営する牧(勅旨牧:ちょくしまき)の一つ、「小野牧(おののまき)」があったという説があります(八王子市南大沢の谷にあった:段木一行氏説)。この小野牧の管理者(別当)は自衛のための馬や武器を手に入れることができ、これが武士の原姿と考えられます。
実際、この別当は武蔵国一の宮の小野神社(日野市)辺りを拠点とした小野氏で、武蔵七党の一つ、横山党の祖先にあたります。後に横山荘(八王子市)の開発を進めて横山の名を名乗りました。横山党は椚田、平山、田名、海老名氏などの一族を、八王子市や日野市などの多摩川流域、神奈川県の相模川流域に分出していきました。
<平将門の乱と中世への芽生え>
このように、牧と開墾地を背景に地域の有力者が武士化への道を歩んでいったものと考えられます。そして939年、中央の地方政治への無関心、国家支配の強化・圧迫への反抗という「平将門の乱」が起こりました。
この乱で平将門は下総国に政権を建てましたが、翌年戦死し政権は崩壊してしまいました。しかし、この政権は武人政権のさきがけと位置付けられ、中世社会への芽生えとも考えられるものです。律令国家の支配制度は徐々に衰退していきました。
<源平の争乱と武蔵武士>
その後、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)が起こり、源氏が勢力を失い平氏の時代となりますが、保元の乱では横山党を中心とする武蔵武士が活躍しました。平治の乱で源氏が敗れると、配下の武蔵武士は国へ帰り、チャンスを待つことになります。
この2つの乱の結果、平家全盛の時代を迎え、武士の力が政治に大きな影響を与えるようになります。ちなみに平清盛の経済基盤の一つは、武蔵国(知行国)からの税収でした。
<鎌倉幕府と八王子の役割>
1180年、平氏打倒を目指し源頼朝が挙兵しました。当初は静観していた武蔵七党も後に源氏側につき、一ノ谷の合戦(鵯越)では平家物語に記されるほどの活躍をしました。古くから牧などで騎馬の訓練に長けていたため、その機動力が大きな力となったようです。
1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山庄の所領を保証されました。また、横山氏の女を母とする梶原景時は元八王子村に所領を与えられるなど、八王子周辺は鎌倉政権を支える重要な防衛基地の一つとなりました。
<参考文献>
東京都の歴史(児玉幸多 監修)
八王子市の歴史(樋口豊治 著)
永林寺と大石氏
2000.12.21
その昔、猿丸峠とも呼ばれた野猿峠、現在は野猿街道が通り車で簡単に走りすぎることができます。この野猿峠のふもと、今の由木中央小学校のすぐそばに永林寺があります。以前は、永麟寺と号していましたが、徳川家康がこの寺の林の見事さに、「名に負う永き林なり」と誉めたことから、この寺を永林寺と呼ぶようになったということです。由木音頭の一節に、
武士は定久 男は勘解由(かげゆ)
寺は武蔵野、武蔵野、永林寺
ホンニ、ソレソレ 永林寺
とあるように、永林寺は滝山城の城主大石源左衛門定久(大石 氏十三代目)が1538年に建立しました。ここ由木には永林寺をはじめ、大石氏の遺構といわれるものがいくつか見られます。今回は大石氏の時代を見てみましょう。
大石氏は信濃国大石郷(長野県南佐久郡八千穂村大石)の住人でしたが、大石氏七代目信重が関東管領上杉憲実(山内派)に属し、延文元年(1356)入間、多摩両郡に十三郷の地を与えられ、武蔵目代(国守に替わる私的代官)・武蔵守護代(赴任しない守護に替わって実務を代行する代官)に任命されて多摩の地に支配を及ぼすようになりました。大石氏はこれらの職を三代にわたり十五世紀前半まで引き継ぎました。
十四世紀後半の関東地方は南北朝の時代で鎌倉公方と昔からの領地を掌握する諸豪族とが対立する場合も多くその政治状況は複雑をきわめました。また、一揆も多く、中でも武州南一揆 は船木田荘を有名無実の荘園にしてしまいました。この一揆に は八王子の梶原氏もその中核的存在として一揆集を率いていたと考えられています。先の大石氏もこの武州南一揆を利用していたふしがあります。実際、船木田荘を横領されることは武蔵守護代としては領地の経営ができなくなることになりますが、 これを黙認していたと見られるのは、武州南一揆と通じていたからだと思われます。この頃の武士の行動基準とは、「一所懸命(もらった一ヶ所の土地を命に懸けても守ること)の地」のためには変わり身の早さも必要であったということです。
信重以降の大石氏は主な居城を関東地方西端に築きました。
・八代目 大石憲重:八幡山城(埼玉県児玉雉ヶ丘)他
・九代目 大石重仲:大石館(飯能市仲居)
・十代目 大石房重:八幡山城?
・十一代目 大石顕重(信濃守):高月城、松本城(八王子)
・十二代目 大石定重:滝山城
・十三代目 大石定久:永林寺城(現在の永林寺の裏山)
十一代目信濃守は高月城を築くまでの間、松木の大栗川東岸台地上の居館にいたといわれ、その一部が遺構として残っているとのことです(筆者、一度探索しましたが、未発見)。また、その屋敷にあったと言われるサルスベリが八王子市指定文化財天然記念物になっています。信濃守の高月城には当時の最高の文化人が訪ねて来ました。一人は京都聖護院門跡の道興准后、もう一人は禅僧の万里集九でした。当時、大石氏は八王子市域を本拠地として府中市、あきるの市、所沢市、飯能市にわたる広大な地域を支配していた実力者だったからに他なりません。
しかし、勢力をはった大石氏も北条氏康の力を無視せざるを得なくなり、大石定久は氏康の子、氏照を養子に迎え、自らは 多摩郡戸倉(あきるの市五日市)に隠退しました。気骨はあっても北条氏に比べれば小物の大石定久としては、こうするほか生き残る道はなかったのでした。隠退後の大石定久は入道して 真月斎道俊となり、永林寺で亡くなった家来の菩提を弔っていましたが、天文18(1549)年、腹かき切って相果てたと伝えられています。その後の大石氏は武蔵豪族の権威を保てず、北条氏の家臣団に組み入れられました。世は戦国時代を迎えていました。
<参考文献>
・東京都の歴史 -児玉 幸多 監修-
・八王子市の歴史 -樋口 豊治 著-
・八王子辞典 -相原 悦夫他 著-
・由木音頭解説 -由木音頭保存会発行-
徳川家康の領国経営と大久保長安
2001.4.1
戦国時代、小田原北条氏が関東地方に大きな勢力を張っていました。前号で述べた通り、由木地区を治めていた大石氏も北条氏の家臣に組み込まれてしまいました。しかし、その北条氏も時の勢力者・豊臣秀吉には勝てず、天正18年(1590)に小田原城を落とされ滅んでしまいます。
北条氏は5代96年間関東地方を支配しましたが、そのときの多摩地域の中心は八王子でした。北条氏照が城主の滝山城、八王子城を中心に、今の府中の町や青梅、八王子の町などが治められていました。
<江戸と八王子の役割>
ところが、北条氏に代わり関東へ来た徳川家康は、八王子や小田原ではなく、江戸を根拠地としました。これは、小田原では後背地がなく発展性に乏しく、八王子は内陸で水上交通の便がよくないためと考えられます。それに対して江戸は後背地に関東平野を持ち、ここの灌漑、治水に成功すれば大きな農業生産地になることが期待できます。このように考え、徳川家康は江戸を根拠地にしたのでした。
では、家康はどのように関東地方を治めたのでしょうか。北関東地方には豊臣系の大名が多いため、一万石以上の自分の家臣を利根川沿いに配置し軍事態勢を整備しました。また、多摩を含む今の埼玉から東京、神奈川の地域は幕府直轄領(天領)として代官が治める形にしました。
<有能な技術官僚・代官と大久保長安>
代官はその土地の事情をよく把握して、その地域の殖産興業を担当しました。代官というのはテレビドラマの悪役の代名詞のようですが、そうではなく民政を中心としたテクノクラート、つまり有能な技術官僚のことなのです。しかも家康は八王子には甲州系の代官をおき、その下に在地の土豪を加えて開発していくという仕組みを取りました。
その八王子代官に登用し、多摩の開発にあたらせたのが大久保長安です。大久保長安は甲斐武田氏の家臣で、猿楽師から出世した人でした。長安はさっそく八王子の小門(おかど)陣屋に入り(1590年)、町づくりに着手しました。現存する資料では長安のもとには15人の代官がいて、それぞれが北関東から甲信越まで行って治水工事を指導していたことがわかります。
また、これらの代官は民政官のため、八王子千人同心をおき、甲斐に対する軍事的な備えとしました。八王子千人同心もまた大久保長安の支配下におきました。このように八王子は多摩の開発だけでなく、関東の開発の中心となっていました。家康は多摩を江戸城を支える重要な後背地にしていこうと考えていたため、多摩の開発を八王子代官を中心とした代官主導型ですすめていったのです。
<長安の栄華と終焉>
大久保長安は代官頭として関東から甲信越、さらには美濃や石見も治め、佐渡や伊豆の金山で実力を発揮しました。しかし、その死後、金銀隠匿、幕府転覆の陰謀発覚等の理由により、遺子7人が死罪になるという苛烈な仕打ちを受けました。ですが、長安の坐像がある佐渡相川では、長安の汚名をそそぐとともに、鉱山町づくりの柱にしようとしているとのことです。
<参考文献>
八王子市の歴史(樋口豊治 著)
多摩の代官(村上直、馬場憲一、米崎清美 共著)
八王子千人同心と八王子文化
2001.7.18
近世八王子地域の文化や開発にはたした彼らの役割には注目すべきものがありました。当初こそ軍事的な役割を主体とした千人同心の業務も、やがて、将軍上洛や日光社参のさいの供奉、蝦夷地(北海道)の開発、地誌編纂等に変り、とくに同心たちは八王子周辺の農村に住みついて農耕に携わり、半農半士の生活を営んだとのことです。
<地誌編纂と文化の担い手>
文化・文政期(1804~30)には甲州街道有数の宿場町八王子は織物の集散地として地域経済の中心的地位を占めた上、江戸から十里以上もはなれて幕府の統制や監視をまぬがれたため、地域文化は興隆の勢いにありました。当時の八王子千人同心には、以下の人々のように、八王子地方の文化興隆に一役も二役もかった人がいました。
植田孟縉(うえだ もうしん):「武蔵名勝図会」を昌平黌(しょうへいこう)に献上。
原半左衛門(はら はんざえもん):「新編武蔵風土記」を著した。
塩野適斎(しおの てきさい):「桑都日記」(正編)の著者。
<蘭学の興隆と海防の提言>
さらに、八王子の蘭学興隆に大きな影響をもたらしたのも八王子千人同心に負うところが大きいといえます。
松本斗機蔵(1795~1841)は千人同心としては最高の知識人で、彼の著書「献芹微衷(けんきんびちゅう)」では、海外事情の研究から海防の政策を提言しました。当時国交を開くことは国益を損するという鎖国状態の中で「海防を厳しくして、イギリス、ロシアと貿易せよ」との彼の主張は注目すべき提言でした。
蘭学が多摩地方に伝えられたのはシーボルトが長崎に来航した文政6(1823)年のころであり、千人同心の漢方医・伊藤猶白、小谷田子寅(こやた しいん)らが蘭学研究の先鞭をつけています。
<秋山義方と左蔵の功績>
この二人に続いて本格的に蘭方を修行したのが、町医者・秋山義方です。義方は初め古医方を学び、40歳前後になって江戸に出て蘭方を学びました。そして、八王子子安町(現、万町)で蘭方眼科を開業するかたわら蘭書なども復刻しました。
蘭学者の高野長英も天保2(1831)年には門人とともに義方の家に数日滞在しています。このとき義方の長男・左蔵は16歳。高野長英から強烈な刺激を受けたであろうことは想像に難くありません。この左蔵はやはり千人同心の組頭で、眼科の父に対し内科で身を立てたばかりでなく、ドイツの医学書をオランダ語に翻訳し、活字製造から手がけて印刷出版したという、幕末の文化史上偉大な業績を残しました。
なぜ八王子でこれほど文化が発展したのか?
このように八王子に在住する千人同心は多摩地域における開明的な存在でした。その背景にはいくつかの要因が考えられます。
交通と物流の要所:八王子は木炭・織物の集散地で、人の往来が非常に多かったこと。
高い教養を持つ武士団:千人同心は旗本待遇の武士であり、当時の水準以上の教養を持っていたこと。
絶妙な距離感と経済基盤:江戸に近すぎず、幕府の統制・監視が行き届かない一方で、商業ベースの経済基盤がしっかりしていたこと。
これらにより、新しい技術や文化に対する感度が高く、それを受け入れる素地があり、さらに発展させる人物もいたと考えられます。
幕末の一時期、由木村鑓水で生糸の豪商が出たというのも、時代が下って自由民権運動が活発だったことも、文化・文政期の文化発展と無関係ではなかったはずです。この進取の気性に富んだ流れが、現在の八王子のアイデンティティにも受け継がれていることを願わずにはいられません。
<参考文献>
八王子市の歴史(樋口豊治 著)
八王子技術文化史ノート(飯田賢一 著)
幻に終わった昭和初期の私鉄・南津電気鉄道
2001.10.29
南津電気鉄道は、大正12年の関東大震災で東京府浅草区を焼け出され、故郷・鑓水に帰った大塚卯十郎氏の呼びかけに応じた、当時由木村収入役の大塚嘉義氏が旗揚げし、会社を設立したものです。
玉南電気鉄道(現・京王電鉄)の関戸駅(現・聖蹟桜ヶ丘)西方の多摩一の宮を起点に由木村を横断、相原村橋本(現・相模原市橋本)を経由し、津久井郡川尻村(現・城山町)久保沢に至る20km弱の私鉄計画でした。由木村内は野猿街道、柚木街道に沿って敷設される予定でした。
この鉄道の建設目的は、路線を東京につなげることで沿線農村の開発を促し、相模川の良質な砂利や津久井郡の天然産物を搬出することでした。当時は関東大震災後の建設ラッシュで、東京近辺では砂利採取の鉄道がいくつも開通(小田急、JR南武線、玉南電気鉄道等)していた時期でした。
<設立への熱狂>
大正13年12月3日、由木村鑓水の永泉寺で「南津電気鉄道株式会社」の設立協議会が開かれました。設立委員長は林副重氏、常務委員は大塚嘉義氏で、以下50余名の出席者全員一致で設立準備にかかることが決められました。そして、鉄道省への申請を経て大正15年の認可までの間、村の有力者たちはよるとさわると鉄道の話になったとのことです。
当時、由木村周辺では前述の玉南電鉄、相模原の相模鉄道、同じく相武電鉄などの建設の話があり、沿線予定地の人々がそれぞれの会社へ出資し、わが村への敷設を願っていました。とくに津久井町や城山町の人々の鉄道に対する思い入れは強く、現在でも多摩モノレールの延伸を願望したりとの話を聞きます。
<相次ぐ障害と情熱>
さて、大正15年11月に認可がおりますが、その直後、玉南電鉄は京王電軌に合併し、軌間を1372mmに変更してしまいます。南津電鉄は軌間1067mmのため、玉南電鉄への乗り入れが不可能になってしまいました。そこで、別のルートでの東京乗り入れを図るべく、多摩一の宮の対岸から国立駅へ敷設しようとしていた「東京多摩川電気鉄道」との乗り入れを画策し、昭和2年1月に国分寺までの延長を申請します。これは、多摩川の砂利採取も目論んだ計画だったようです。
南津電鉄の株主は沿線の農民が主で、一株株主も多数いました。昭和2年4月の金融恐慌は東京・横浜の企業にも大波及し、近郊農村の現金収入源である養蚕業にも大打撃を与えました。南津電鉄の株主には一株5円の出資も厳しくなるという最初のつまずきでした。
しかし、なんとか工面をし資金調達ができ、昭和3年10月21日、鑓水の本社及び川尻村の川尻停車場予定地で起工式が行われました。夜には大塚山の道了堂で花火を上げて祝ったとのことです。また、同年11月10日は昭和天皇の即位を祝う御大典記念日で、南津電鉄でも「御大典記念鑓水停車場」の碑を作り駅予定地に据え付けました(現在は絹の道資料館の先に移設されています)。
<計画の挫折と終焉>
昭和4年に入るとそこここで基礎工事が始まり順調にいくかに見えました。しかし、農村不況の深刻さは想像以上であり、株金の徴収も思うにまかせず工事費の支払いにも事欠き、ついに5月末には工事中断となってしまいました。さらに昭和4年10月の世界恐慌で生糸相場が60%以上も値下がりし、農村の株主たちは株金どころではなくなったことも追い打ちをかけました。
大塚嘉義氏は田畑や山林など私財を投げ打って工事再開の努力を続けますが、東京の関東大震災からの復興が昭和5年3月で区切りをつけられると、砂利採取による利益確保のてだても立ち消えになり、いよいよ会社復活さえも困難になってきました。そして、昭和9年6月、会社解散の許可が鉄道省からおり、「南津電気鉄道株式会社」の存在は一切消えてしまったのでした。
南津電鉄が今もあったとしたら、多摩丘陵はもっと違った形の発展を遂げたかもしれません。しかしながら、半世紀以上も前に地域の発展のために鉄道を敷くことに情熱を捧げ、そのために私財を投げ打った人がいたことには敬意を表します。当時の人々が今日の京王線や小田急線の走るさまをみることができたら、感慨一入ではないでしょうか。
<参考文献>
幻の相武電車と南津電車(サトウマコト著)
旺文社 日本史事典(歴史教育研究所編)
知られざるニュータウン・ストーリー(多摩ニュータウンタイムズ記事より)
小野路と小山田氏
2002.2.25
尾根幹線の南側に広がる歴史のワンダーランド:小野路の里と小山田氏
尾根幹線の南側、町田市域にはゆるやかな丘陵地帯が広がり、私たちの住む京王堀之内や南大沢の住宅群とは違う昔懐かしい風景が見られます。今回は小野路の里と、そこにゆかりの深い小山田氏についてお話したいと思います。
<小野路の里と古街道>
京王線・多摩センター駅から徒歩でも約30分、尾根幹線の多摩南野交差点に着きます。ここから南の方、小野路側へ道をとるとゴルフ練習場の横を通り、道はすぐに細くなり下って行きます。道が細くなって約100mのところを右にさらに細い道に入り、2~3分歩くと小野路浅間神社の裏手にでます。このあたりは奥州古街道と呼ばれる街道に沿った地域でした。しかし、実際に付近を歩いても素人の私にはどこが古街道の跡かはわかりませんでした。とはいえ、新緑の季節には木漏れ日が気持ちよさそうな雑木林の中の道が続きます。
<小野路城跡と歴史環境保全>
小野路浅間神社から20分も歩くと小野路城跡に着きます。小野路城は、桓武平氏の一族でこの地一帯を治めていた小山田別当有重が承安元年(1171)町田市小山田に築いた小山田城の守りのための支城群の中のひとつとして築城したもので、有重の子、二郎重義が守備についたとのことです。
城の周辺には「小町井戸」と呼ばれる、水量はそれほど豊かではありませんが、城内の飲み水として使われた湧き水が現在も水を流しだしています。城はひとつの丘を中心に築かれたようでそれほど規模の大きなものではありません。本丸跡には小さな祠が祀ってあります。周辺は「図師小野路歴史環境保全地域」に指定され、地域内の歴史的遺産は現状のまま保全するとともに、小野路城跡を中心とする周辺の樹林は自然林にすることを目標として管理し、地域本来の植生に戻していくという方針のもと保全活動が進められています。
<武門・小山田氏の興亡>
さて、ここで少し小山田城、小山田氏にもふれておきましょう。小山田城は小山田有重の本城として小野路城の南西約1.5kmに位置し、現在の大泉寺一帯が城域とされます。大泉寺の南は緩やかな坂道(寺の参道)となっていますが、西側・北側は深く落ち込み要害をなしています。この城に小野路ほか3つの城を配して一帯を押さえていました。
その小山田有重は、源頼朝の家人として従軍し、建久元年(1190)源頼朝入洛に際しては子の三郎重成らを京に派遣するなど鎌倉幕府開幕に尽力しました。頼朝死後の元久二年(1205)、北条時政の誹りを受けて長男稲毛重成・重成の子重政・弟四郎重朝が将軍実朝に誅されると勢力は一時減退しますが、元弘三年(1333)、小山田氏の末裔太郎高家は小山田城を本拠に新田義貞の挙兵に加わり、鎌倉攻めなどで活躍しました。その後、高家は湊川の戦いで義貞を救って討ち死にしてしまいます。小山田氏は室町中期の文明九年(1477)に滅亡しますが、小山田、小野路両城は武相国境の要衝として、後に上杉軍の拠点としても改修されました。
<散策の道>
小野路城からは萩生田牧場の横を通り、切り通しを抜けて小野路宿へ出て「小島資料館(新撰組資料で有名)」を訪問するのも良いですが(要開館確認)、私は道を一本杉公園へととりました。この道は鎌倉裏街道の一部でもあり、公園の中には新撰組の土方歳三が出稽古で通った道も残っています。一本杉公園経由でゆっくり歩いても1時間かからずに多摩センター駅に着きます。
尾根幹線の南側は「多摩のよこやま道」として、歴史のワンダーランドが展開されています。雑木林など多摩の自然も残っており、身近な散策路としても好適ではないでしょうか。
<参考文献>
多摩のよこやま道散策マップ(多摩の自然とまちづくりの会発行)
東京都の歴史(児玉幸多監修)
史跡訪問HP
東京の環境-保全地域の指定状況-(東京都環境局HP)
玉川上水の通船と甲武鉄道
2002.5.19
現在、緑の散策路としても親しまれている玉川上水は江戸時代、町方の生活の安定のために整備されたものですが、その玉川上水に明治の初め船が通っていたことがあります。今回はそのあたりの状況を見てみましょう。
明治3年5月28日に羽村から内藤新宿までの通船許可が下り、船による荷物の搬送が開始されました。当初6艘だったものが翌4年10月には104艘になり、また、明治4年6月には小河内村から羽村までの多摩川の通船が許可になりました。これにより、青梅から内藤新宿までの直通便が開かれ、最盛期には一ヶ月で2500トンの輸送能力があったとのことです。
船で東京へ運ばれたのは砂利、石灰、野菜、茶、織物、薪、炭、また甲州や信州のぶどう、たばこなどの産物であり、東京からは米、塩、魚類などが運ばれました。それまで荷駄で運ぶと銀5匁の炭が銀60匁にもなっていたのが、船による大量輸送で安く運ぶことができるようになりました(運賃として約30分の1まで格差がついた)。そのため、運送をあきらめていた甲州や信州の物産の東京輸出の道が開かれたと言われました。
しかし、飲用水路に船を通すという常識的には考えられないこの通船は、上水事務の所管が大蔵省土木寮という国の機関に属していた期間にのみ許されたもので、その所管が東京府に戻ったのと同月の明治5年5月30日には「上水不潔ニ至リ」という理由で通船停止になります。船主たちは上記大量輸送による利益のため(明治16年「東京四ツ谷口運送河利益予算調書」によると約33万円の利益が見込まれた)、再三にわたり再興を要求しますが、遂に再開されることはありませんでした。
しかし、指田茂十郎らが前述の「東京四ツ谷口運送河利益予算調書」を書いて通船に最後の望みをかけていたころ、銀座二丁目の滝沢久武、服部九一が玉川上水に沿った新宿~羽村間に馬車鉄道の敷設を計画し、東京府に堤防の敷地使用を願い出ています。これは許可にならなかったようですが、その後、通船を出願し続けていた指田茂十郎らに意見を求めたりして明治17年4月22日に甲武馬車鉄道会社を設立しました。
この会社は新宿から八王子までの馬車鉄道敷設を出願し、明治19年11月13日に許可されています。ただし、そのルートは今の中央線のように直線ではなく、新宿から西南西に進み永福町近くの大宮八幡で西北に折れ、西荻窪を経由、保谷付近から小平、小川、立川市砂川町、昭島市福島町で多摩川を渡り、八王子市石川町、八王子駅と経由するものでした。
この馬車鉄道の許可を見て、指田茂十郎は武甲鉄道会社を設立し「鉄道設置願」を提出します。しかし、そのルートは甲武馬車鉄道会社のものと重複するものでした。この結果、武甲鉄道は甲武鉄道に合同することになりました。これにより甲武鉄道敷設事業が本格的に動き出し、明治22年4月11日に新宿~立川間(中野・境・国分寺に駅を設置)が、8月11日に立川~八王子間が汽車鉄道として開通して完成をみます。これにより通船での物資の輸送が鉄道に代わり、玉川上水への通船の問題は解決されました。
甲武鉄道のルートは東中野から立川まで直線ですが、もとは街道沿いに建設される計画だったそうです。ところが、甲州街道沿いでは高井戸、調布、府中、青梅街道沿いでは田無とそれぞれの地元町村の反対で流れてしまいました。このときに蒸気鉄道の誘致に乗り出したのが、境村、国分寺村、立川村柴崎等の武蔵野開拓地主たちでした。甲武鉄道も八王子と東京を結ぶことが目的で途中のルートは問わないという姿勢だったため、野と畑と森林のまっただ中をまっすぐに蒸気機関車が走ることになりました。
<参考文献>
多摩百年の歩み(多摩百年史研究会編著)
東京都の歴史(児玉幸多監修)
市民のための八王子の歴史(樋口豊治著)
由木 ~身近な歴史~
2002.9
八王子市に合併する前、私達の住む街は由木村と呼ばれていました
今回は皆さんの足元にある小さな歴史の一部をご紹介します。
<由木の語源>
由木は柚木あるいは由儀とも書かれ、語源はいろいろな説があります。柳田國男は「木綿以前の事」という文章の中で日本人の衣服の歴史に触れ、私達の祖先が用いた絹、麻のほかに、現在では紙の原料として知られる楮(こうぞ)の繊維を布に織って用いたのではないかと述べています。そして、こうぞの中でも優等な品を神に供えたことからその布を「ユフ」と呼ぶようになりました。しかし、こうぞは自由に採取できるほど山野に自生してなかったので生産地は保護され、ユフの産地を意味する由ノ木(由木)と呼ばれるようになり、類似の地名は全国に見られます。また、ユズのことをユーまたはユヒというので柚子の里という説もありますが、木綿(ユフ)以前の衣服という説のほうが歴史的な重みがあるようです。
<古代窯業地帯>
大栗川の源流にある鑓水には、大陸からの渡来人の指導により、硬質の須恵器の瓦を焼いたという記録があり(746年)、大栗川を遡って文化が伝わっていたことがわかります。多摩丘陵一帯が須恵器や瓦の一大生産地でした。
<大石氏の遺構>
由木には、室町時代の大石氏に関する史跡や伝承地がいくつもあります。その一つが永林寺一帯であり、境内の奥には「由木城址」の碑が建ってます。大石氏のうち、滝山城主だった大石定久は深く仏教を信じ、一族の僧長純を開山として、天文16年(1547)、永林寺を開基しました。その後、大石定久は小田原北条氏に敗れてその配下となり、北条氏照を養子に迎えました。定久は、天正18年(1590)、猿丸山(野猿峠)で自刃したといわれ、現在、永林寺本堂裏手に定久の墓があります。
<足もとの歴史>
堀之内周辺の発掘調査によれば、今から約5000年前の縄文中期、堀之内には多摩ニュータウンでは最大の集落が営まれていたことがわかっています。大栗川流域を支配する中核的な存在として、竪穴住居跡が確認されています。台地下の泥炭層からは植物の化石もたくさん発見され、今とは比べものにならないほど、豊かな森があったことが想像されています。
<平安時代からの古刹>
「吾妻鏡」にも記録のある八王子市別所の蓮生寺は、源頼朝の護持僧だった円浄坊が、寿永元年(1182)に建立したという古刹です。この遺跡からは、建物跡や鍛冶場跡、井戸などとともに国産の陶器、中国製青磁碗、白磁碗などが発見されました。このことは、平安時代にすでに、この地に寺を建立し、運営できる豪族がいたことを示しています。
<生糸商人と絹の道>
大栗川の源流にある鑓水は、「絹の道」として栄えたところです。安政6年(1859)、横浜開港と同時に生糸は重要な輸出品となり、八王子は生糸の一大集散地となりました。山梨、長野、群馬などからも大量の生糸が集められ、馬の背で絹の道を通り、横浜へと運びました。絹の道は、八王子の八日町から湯殿川を渡り、片倉から鑓水峠を越え、南下して小山から境川沿いに原町田へ出て、横浜へと続いていました。鑓水には、生糸貿易で財をなした大商人が輩出して鑓水商人といわれました。鑓水は農業の生産性が低いため、進取の気性に富んだ村民が、早くから生糸などの商業活動にたずさわっていました。
<80年続いた由木村>
徳川時代の由木領は、現在の八王子市、町田市、多摩市の一部を含む広大なものでした。明治時代になると廃藩置県により、旧由木領は一時韮山県、品川県となった後、明治22年(1889)、市町村制施行により、上柚木・下柚木・鑓水・中山・松木・大沢・堀之内・越野・中野・大塚・別所の11ヶ村が合併して神奈川県由木村となりました。その後、東京府~東京都南多摩郡由木村となり、昭和39年までの80年間存続しました。
東西に長い由木村は、西南北三方を山に囲まれ、平坦部では大栗川のり水を利用して水田が開かれ、丘陵地帯では畑が耕作されていました。大地主は少なく、小規模農家の大部分が自給自足体制で、副業として養蚕が行われ、農閑期には目籠などの副業に精を出していました。稲わらは牛馬の飼料のほか、米俵やムシロ、草履などの貴重な材料となり、牛馬や蚕の糞、落ち葉は畑作の肥料として利用され、日本農業独特のリサイクルシステムが確立していましたが、畑地の半分は山林斜面を開墾したもので、急勾配のため人手に頼らなければならず、はしごや籠を使って重い堆肥や農産物を運搬するなど、平坦な農地の二倍、三倍の労力を要し、由木人独特の気質が生まれました。
<参考文献>
牧場のおっさんHPから抜粋
ぽんぽこかわら版 (No.24~No.35)
長池見附橋
2002.12.15
今年1月1日の広報八王子に八王子の魅力を再発見、あなた の身近にこんな景色が、として「八王子88景」が選定されたという記事がありました。その中に長池見附橋が選ばれています。多摩ニュータウンは橋の多い街ですが、その中でも長池見附橋は美しい橋のひとつではないかと思います。今回はこの長池見附橋について述べてみたいと思います。
長池見附橋はかつて新宿区四谷にあった四谷見附橋を移設復元したものです。橋の中央には「成月九年ニ正大 橋附見谷四」という右から読む横書きの碑銘がはめ込まれています。橋の名にある「見附」は江戸時代に桝形の城門を築き通行人の検問を行う施設があった場所を示します。道はこの城門のところで鉤型に90°曲がり、外敵がスムーズに通過できない構造になっていました。四ツ谷門以外にも田安門、虎の門、半蔵門等(今も地名として残っていますね)に桝形の城門が築かれていました。 時代が進み、明治時代になり甲武鉄道の四ツ谷駅が1894年に開業しますが、この頃には桝形の城門は撤去されていました。しかし、道路は桝形城門に従った形でコの字形に迂回していました(コの字形の|の部分で外堀を築堤で越えていた)。当時開通した市電も道路に沿って迂回していましたが、これを解消するために架けられたのが四谷見附橋でした。1913(大正2)年に竣工し、構造は上路式鋼製アーチ橋で橋長37m、幅員約22mで外堀を跨ぎ、迂回していた道路を一直線でつなぎました。また、この橋は1909(明治42)年に完成した赤坂離宮(現在の迎賓館)のデザインに対応したネオバロック調の装飾が施されてい ました。架橋当時はモダンな橋だったようです。1987(昭和62) 年に架け替え工事が始まるまで、70年を超えて現役でがんばっていました。
四谷見附橋は創建当時の姿そのままで共用されている日本最古の鉄製アーチ橋であり、また、明治中期から大正期に架橋された装飾橋の中でも鉄橋としては残された唯一の橋でした。文化遺産としても価値の高い橋を移築復元しようとの声があり、 その移設場所として選ばれたのが長池公園でした。長池公園にかかる橋は当初(移設前)の計画では、
①環境特性から周辺環境との自然的調和を図る橋
②機能特性からレクリエーション機能を有する橋
③形態特性としては緑地との調和を図り、シンボリックな橋 と位置付け、木橋のイメージを持ったものとしていました。
しかし、四谷見附橋の移設・復元が決まると橋梁下は当初の狭いせせらぎから、広くゆったりとした池の形状に計画の変更がなされました。この池は復元橋の姿が水面に映し出されることから姿池と呼ばれることになったのです。私たちが親しんでいる せせらぎにもちょっとした歴史があったのですね。
以上のように長池見附橋には、たどって来た道がありました。 地域のシンボルである橋として、これからも大切にしていきた いですね。
<参考文献>
・多摩ニュータウン 四ツ谷見附橋再建工事誌(住宅・都市整備公団著)
・ネオバロックの灯 四谷見附橋物語(四谷見附橋研究会編著)
多摩ニュータウン開発経緯 昭和30年代~現在
2002.12.15
今回は開発着手の頃から現在までの大まかな足取りを年表 形式で追いかけたいと思います。()内は西暦年。
昭和37年(62年):
多摩ニュータウン開発構想期
筆者のイメージでは、だいぶ早い時期から構想があり、事業が始まったのだなと感じます(昭和31年生まれのせいもあり)。
昭和38年(63年):
↓
昭和45年(70年):
新住宅市街地開発法発布
↓
多摩ニュータウン区画整理事務所設置
この間、事業主体となる公社や開発局の設置が相次ぎました。 筆者は小学生~中学生の頃です。多摩テックへ行きたかったのを覚えています。
昭和46年(71年):
諏訪・永山地区(5, 6住区)街開き
第一次入居時は賃貸、分譲合わせて2538戸が建設されました。 ただし、小田急、京王の永山駅はまだ開設されていなかったため、バスで聖蹟桜ヶ丘へ出るのがルートだったようです。
昭和47年(72年):
和田、愛宕、東寺方、鹿島、松が谷地区(17,18住区)街開き
昭和50年(75年):
小田急多摩線が多摩センターまで延伸
前年の京王相模原線の多摩センター延伸と合わせて、以後13年間多摩センターが両線の終点でした。
昭和52年(77年):
東京都南多摩開発計画会議において多摩ニュータウン西部地区開発大綱策定
昭和53年(78年):
↓
昭和57年(82年):
落合、豊ヶ丘(8, 9住区)入居開始
↓
落合、鶴牧(10, 16住区)入居開始
昭和55年(80年)の多摩センター地区開業をはさんで、この頃までは多摩センターより東側地区の整備が中心でした。
昭和58年(83年):
南大沢(14住区)入居開始、ガーデンシティ多摩 '83開催(以降毎年開催)
今に続くガーデンシティ多摩は、この時期から始まったのですね。まだ電車は多摩センター止まりだったので、南大沢へはバスに乗る必要がありました。
昭和62年(87年):
パルテノン多摩、サンピア多摩オープン
昭和63年(88年):
京王相模原線が南大沢まで延伸、南大沢地区開業
南大沢駅周辺の商業・業務施設(フレスコ南大沢等)が開業しました。今の南大沢の源ができたのですね。
平成 2年(90年):
堀之内・別所(12住区)入居開始、小田急多摩線唐木田まで延伸、京王相模原線橋本まで延伸、京王プラザホテル多摩開業
筆者の住む別所地区はこの年に街開きしました。
平成 4年(92年):
多摩ニュータウン25周年シンポジウム開催
平成 8年(96年):
第1回見附ヶ丘フェスティバル(現ぽんぽこ祭)開催
ローカルな話ですが、今年の夏には第9回目を迎えるぽんぽこ祭はこの年に始まったのです。
平成10年(98年):
南大沢「ガリレア・ユギ」内にイトーヨーカ堂南大沢店開店
平成11年(99年):
NPOフュージョン長池設立
平成12年(00年):
多摩都市モノレール 多摩センター~立川間開通、ラ・フェット多摩南大沢開業
平成13年(01年):
ファブ南大沢開業
南大沢は映画も見られますし、買い物も便利になりました。
以上のように筆者の小学生の頃から現在にいたるまで40年間の多摩ニュータウンの歩みを駆け足で見てきましたが、前半20 年は量を供給する開発だったのに対し、後半20年は量だけではなく質の高い住環境の整備という質的な転換が見られたように思います。
40年という長くはないかも知れませんが、決して短くはない歴史を持った街~多摩ニュータウン~、しばらくはこの街の生い立ちから成長の過程を追ってみたいと思います。
<参考文献>
・月間 多摩テレビ 3月1日号(株式会社 多摩テレビ発行)
・地図で見る多摩の変遷(財団法人 日本地図センター発行)
・NPO ぽんぽこ(富永 一夫著)
野猿峠と野猿街道
2003.3.24
皆さんが八王子へ行かれるときは、野猿街道を使うことも多いかと思います。野猿街道は今でこそ片側2車線の広い道路で スイスイと走っていけますが、その昔の野猿峠は今よりも急傾斜の道で越えるのに苦労をしたそうです。今回は私たちに身近な野猿街道・野猿峠のお話をしたいと思います。
野猿街道は八王子事典によると「八王子市と多摩市を結ぶ道路。JR八王子駅南口より京王北野駅をへて野猿峠を越え、由木地区を縦断して多摩市一の宮(聖蹟桜ヶ丘駅近く)で川崎街道と合する。」とあります。ただし、現在は川崎街道をアンダークロスし府中四谷橋で多摩川を越え、国立府中IC付近までつながっています。全線片側2車線の、車にとっては走りやすい道となっています。財団法人・日本地図センター発行の地図 で見る多摩の変遷で、京王堀之内~南大沢の道路事情をみると、 多摩ニュータウンができるまでの間、野猿街道が多摩丘陵外部との行き来のために大きな役割を果たしていることが見て取れ ます。大栗川の作る谷あいを大栗川につかずはなれず沿って、多摩一の宮から山間へ分け入っていく、というのが筆者の持つその昔の野猿街道のイメージです。
ところで、由木地区から八王子へ行くには野猿峠を越えて行くことが多いと思います。戦前の由木村の人々も同じように八王子へは野猿峠を越えて行ったとのことですが、野猿峠は現在はかなり切り下がった状態で昔はもっと道が険しかったようで す。そのため、ゼンジ丸という柿を出荷するとき荷物が重くて 野猿峠を越えられないので、わざわざ高幡橋を渡り、浅川沿いに平山へ行ったそうです。これだけ険しい道だった名残が現在の峠頂上のバス停わきに残っています。石を刻んで作った馬の水飲み場です。馬も人もここで一息入れて峠を越えて行ったのでしょう。
ところで、この野猿峠という名称の由来は何でしょうか。 「武蔵名勝図会」によると、猿山領 猿山峠とも号す。・・・ 嶺上のまた高き丘に、大石道俊(道俊は大石定久の法号、晩年 永林寺-野猿峠の下柚木側の麓-に住んだ)の碑石があり。或 云大石定久入道遺命して、この嶺上に着具の甲(かぶと)を埋めて碑石を建てけるゆえ、往古は甲山峠と唱えけるが、その後甲を申に書きたりければ、サルと読み来たれるより転じて読み やすき猿という文字になりけると云。・・・そして、猿山峠と 呼ばれるようになったらしいのですが、江戸時代末ころにはさらに転じて猿丸峠と呼ばれていたようです。大正12年の南多摩郡史八王子地図には猿丸峠との記載となっており、打越八幡 神社の昭和3年の道路大改修碑にも猿丸峠となっているため、 野猿峠となったのはそれ以降のことと思われます。国土地理院 の地形図に野猿峠の名前が登場するのは昭和28年の版からだ そうです。この頃、京王電鉄で峠周辺にハイキングコースを整 備し、初めて「野猿峠」という名前を使ったと言われていますが、京王電鉄が名付け親だという確証はないようです。地図で 見る多摩の変遷の昭和26年の地図には野猿峠に手の平松という記載があります。昔は山上すべて松樹たてり(風土記稿)という景観で、野猿峠には手の平松と呼ばれる大樹があり、眺望の勝地だったということです。
昭和40年頃でも大型車がやっとすれ違える程度の道幅しかなく、両側の谷戸の谷間は深く、転がり落ちるのではないかと怖いほどの道だった野猿峠ですが、現在は道路の拡幅や宅地開発などで昔日の面影は薄れてしまいました。それでも、夕刻、 八王子から野猿街道で帰ってくるとき遠くに別所地区の街灯が見え、帰って来たと実感するのは峠を越えるからなのかも知 れません。
<参考文献>
・八王子事典(八王子事典の会著)
・野猿峠(下島 彬著)
・「多摩の昔のくらし」
峰岸松三さんの語る戦前までのくらし
~2000年10月28日トムハウスまつりにて
・ぽんぽこかわら版(No.30) 多摩の歴史をたずねて(田中 純)
多摩よこやまの道と古街道群
2003.6.21
赤駒を山野に放し捕りかにて
多摩の横山徒歩ゆか遣らむ ~万葉集~
この歌は「赤駒を山野に放牧して捕らえられず、 夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろうか」という防人の妻の歌です。
平成15年4月に都市基盤整備公団により整備されていた多摩よこやまの道が一般に開放されました。多摩よこやまの道の位置する尾根筋は、古代より武蔵野と相模野の両方を眺められる 高台として、また、西国と東国を結ぶさまざまな交通の要衝として活用されてきました。今回は多摩よこやまの道とそこに痕跡を残す古街道群について触れてみたいと思います。
小雨模様の5月17日土曜日、多摩よこやまの道の一方の終点である唐木田の大妻学院から歩き始めました。初めは小山田緑地への道を進みますが、ゴルフ場の横をぬけて多摩市総合福祉センターの裏手に出ます。分かれ道には必ず道標があり、ほとんど道に迷う恐れはありません。ここから先は一本杉公園を過ぎるあたりまで歩道や住宅街の中の遊歩道を歩くことになります。よこやまの道というネーミングにゆるやかな起伏を繰り返 す尾根伝いの土の道を想像する方も多いでしょうが、ちょっと期待はずれの感があるかも知れません。しかし、車のことは考えずに歩けるので気持ちのいい道であることは間違いありません。多摩市南野には南側の小野路地区の眺望ポイントがあります。この先にもいくつか眺望ポイントがあり、多摩市の街並みや町田市、川崎市側の緑地の風景が目を楽しませてくれます。
さて、南野の南側、小野路の浅間神社付近を通って多摩市一の宮へ向かって奥州古街道というのが通っていたそうです。箱根の足柄峠を越えて東国へやってきた人々が通った道だったようです。小野路には古街道跡と推察される道もありますが、よこやまの道付近では、痕跡もよくわかりませんでした。よこやまの道は一本杉公園の横を通りますが、野球場を過ぎたあたりに新撰組の土方歳三が出稽古で通った道と言われる鎌倉裏街道があります。木立に覆われた道で、昔はこのような道が多摩丘 陵を縦横に走っていたのでしょうか。現在のよこやまの道は恵泉女学園の前を通りさらに進みます。緑の濃くなった並木に小雨をよけてもらいながらの散策です。
その先に妙桜寺というお寺がありますが、この付近はいくつかの古街道が集まった場所のようです。 800年前いざ鎌倉というとき板東武者が駆けつけた道と言われる鎌倉古道、鎌倉古道より谷戸の集落沿いを通る旧鎌倉街道、奥州古街道と同じく箱根・足柄峠を越える矢倉沢古道等があります。この中に御尊櫃御成道(ごそんひつおなりどう)と呼ばれる道があります。この道は徳川家康が亡くなった直後、日光の東照宮へ遺骨を運ぶ大 名行列が通るために幕府の命令で村人総出で造ったという道で す。当時の東海道を通らず、あえて矢倉沢古道筋を安全のために選んで整備したとのことです。
多摩よこやまの道は、ニュータウン総合市場を左に見て、いよいよ、よこやまの道らしい尾根筋の道になります。この付近、国士舘大学の裏手から 黒川配水場あたりまでは、古東海道、軍事鎌倉街道とルートが重なっているようです。古東海道は奈良時代後期(771年)~平安時代の七つの国道のうちの一つで、相模の国府と武蔵の国府を結んだために多摩丘陵を通ったと考えられています。軍隊の 移動や防人の徴兵のときもこの道を通ったと考えられます。軍事鎌倉街道は南北朝時代以降に急速に発達した戦略道です。黒川配水場付近にあった丸山城近くで二つに分かれ、永山駅方向へ向かっていたようです。よこやまの道は、その先もゆるやかな起伏を繰り返す歩きやすい尾根筋の道です。
気持ちのいい尾根歩きも、黒川の開発地を右手に見ながら、多摩東公園・丘の上広場に到着して終 了しました。ほぼ2時間の尾根歩きでした。よこやまの道の南側に広がる小野路や黒川などの緑地帯と組み合わせれば多摩丘陵を満喫できる散策路がとれそうです。それにも増して、古代 から江戸時代までの人々が行き来したという多摩丘陵を、歴史とロマンを感じながら手軽に歩けるよこやまの道は、贅沢な散歩道なのかも知れません。
<参考文献>
・多摩よこやまの道パンフレット(都市基盤整備公団、多摩市発行)
・多摩のよこやま道散策マップ(多摩の自然とまちづくりの会編)
・多摩丘陵フットパス1(NPO法人みどりのゆび発行)
多摩ニュータウン開発前夜
2004.3.11
私たちの住む多摩ニュータウン、この街並みができるまでにどのようなことがあったのか、昔はどのような土地柄であったのか、これから数回にわたり、「多摩丘陵のあけぼの」(横倉 舜三著)等を参考に探ってゆきたいと思います。今回は”多摩 ニュータウン開発前夜”と題して開発前までの様子を見てみましょう。
多摩丘陵は八王子市の南西端を起点として、多摩川と境川の間をしだいに幅を広げながら東南にのびる丘陵の総称です。この中で、八王子市、多摩市、稲城市、町田市にまたがる一大住 宅都市が多摩ニュータウンです。その多摩丘陵もニュータウン以前は、丘陵のいくつもの谷間に点々と住まいがある静かな山村といった風景でした。
この多摩丘陵に人々が住み始めたのは旧石器時代のことだといわれています。その後縄文時代には、八王子市堀之内にある No.72遺跡群(200軒もの竪穴住居跡が見つかった)に代表されるように集落が最も発展しました。奈良時代には、府中の国分寺や相模の国分寺の瓦を焼いたりと古代の工業地帯として発展したりもしました。多摩丘陵に住む人々はその時々の政治や環境に適応しつつ、森や田畑を守り、伝え続けてきました。
開発前の多摩ニュータウン区域内の農家は800戸近くにのぼっていたものと思われます。そして、田畑の隅々まで人の手が入り、雑木林の1本1本の木にも人の手がかけられ、多摩の風景を作り出してきました。とくに横倉氏の住んでいた落合、唐木田のあたりは純朴な農村風景が広がっていたそうです。そして、慎ましくも安定した農業の継続がこの地域の人々の願いだったのではないでしょうか。
この丘陵に住む農家の人たちにとって戦前戦中を含め、現金収入の道は夏は養蚕が大半を占めていました。桑の葉が使える間は何回となく蚕を育て、夏場は休むことがなかったといいます。冬場は、山で薪切り、炭焼き、女性は糸採り、機織りなどで現金収入を図っていました。ただ、戦後は生糸の需要は減り、また、燃料としての山林も灯油にとって替わられ、現金収入の道も先行きの不安感が大きくなってきました。その頃(昭和20年代)の落合地区(現在の多摩市落合)の農作業は、丘陵という地形の問題をかかえ、山間や丘の上の段々の畑、谷戸の田んぼでの作業となり、畑はほとんどが傾斜地で、街に出回っていたオート三輪などの車があったものの、この土地では役に立たない状態でした。手元にある昭和26年の地図で唐木田付近を見てみると、幅2mほどの道路に沿って集落が続き、両側の山には人家のそばには桑畑が、人家から離れていくと手入れされた雑木林が広がり、谷戸には田んぼがあるという風景で、畑や田んぼには車の入れる道はありません。そのため、収穫物は全て 背中や肩に背負って運ぶしかないという状態でした。なんとかしてこの状態から脱したい、この耕地に道路を作り、生産を上げたい、そして、安定した農業を続けたい、というのが当時の人たちの偽らざる心境だったのではないかと思います。
こんな背景の中、戦後という時代の変わり目に当時の若者に今後の地域を任せようという気運が生まれ始めていました。そこで動き出したのが農業の近代化の動きでした。それは、酪農であったり、養豚、野菜作りだったのです。ところが、農業の 近代化には農道の整備から農地改良、機械化など経費がかかることになります。この経費をまかなうための資金繰りが山林の一部を売却することにつながっていきました。売却した山林に はゴルフ場が建設され、昭和30年代にはゴルフ場の建設ラッシ ュを迎えました。ゴルフ場開場後はコース管理やクラブハウス要員として多くの人々が働くこととなりました。農業近代化のための山林売却が必ずしも農業の近代化にはつながらず、安定した農業の継続という人々の思いにそった形にはならなかった、このような中、昭和36年から多摩ニュータウンの開発を迎える ことになります。
<参考文献>
・多摩丘陵のあけぼの(横山 舜三著、多摩ニュータウンタイムズ社発行)
・連載 多摩ニュータウン(横山 舜三著、多摩ニュータウンタイムズHP)
・地図で見る多摩の変遷(財団法人 日本地図センター発行)
多摩ニュータウン開発~変わる地名~
2004.5.30
筆者は別所2丁目在住ですが、この別所という地名は、古くは江戸期~明治に多摩郡柚木領の村名として存在していました。 1889(明治22)年に由木村の大字となり、1964(昭和39)年由木村の八王子市合併で八王子市別所となりました。別所2丁目は多摩ニュータウンの開発で前述の別所・南大沢・堀之内・東中野の各一部にまたがって誕生したものです。「別所」は大字が現 在の住所名に引き継がれていった例ですが、中には消えていった字名もあります。今回は地名の変遷について見ていきたいと思います。
まず、多摩ニュータウンの開発で誕生した地名の例です。
鹿島:
昭和50年八王子市議会で議決されて、12月1日から新町名として誕生しました。八王子市大塚の一部が鹿島となったもので、その由来は、昔、この地に鹿島神社があったことによります。
松が谷:
鹿島と同時期に新設された町名、八王子市東中野と大塚の一部が松が谷になりました。これは、この地に古くから松が谷戸と呼ばれる谷があったことから名づけられたものです。
南野:
町田市から多摩市に編入された町田市の小野路地区の一部が多摩ニュータウンの南端に位置することから、小野路の野を取って「南野」と名づけられました。
これらのほかにも、多摩市の「愛宕」「聖ヶ丘」、稲城市「向陽台」などがあります。鹿島、松が谷などは誕生してから20年以上も経っていることから、筆者にはその土地になじんだ地名と感じられます。
先に述べた別所以外の大字が町名として残っている例は、別所のあった旧由木村で見てみると、鑓水、中山、上柚木、下柚 木、越野、堀之内、南大沢、松木、東中野、大塚と別所と合わせて11の大字が現在も町名として残っています。となりの多摩市では、旧多摩村の時代に8つの大字がありましたが、その中で「乞田」だけが現在の町名に使われていません。乞の字が乞食を連想させるからでしょうか、新しい街のイメージに合わないということで使われなくなったようです。ただし、わずかに 乞田川にその名をとどめています。その昔、領主の圧政で食糧難に苦しんだ農民が「少しでも田んぼを耕させてほしい・・・」と乞うたのが地名の由来と伝えられています。
大字は地名として比較的存続していますが、小字になるとそうではなくなります。そのほとんどが住所表記の地名から消えていったと言っても過言ではないでしょう。そのいくつかを紹介したいと思います。
日向:
上柚木、南大沢、大塚やその他の地区にも見られる旧小字名です。南に開けた日当たりの良い土地につけらました。
日影:
上柚木、南大沢、堀之内、大塚に見られます。山や丘陵の北斜面か山すそに見られる地名です。
これらの地名は差別感を感じさせるのか、全く消えてしまった ように思われます。
愛宕:
上柚木の旧小字。もと愛宕神社とその北麓の地を呼びました。愛宕神社は多摩ニュータウン開発で1986年9月に現在の地に遷座しました。こちらの愛宕は消えてしまいましたが、多摩市には新しく愛宕が誕生しています。
引切:(ひっきり)
堀之内の旧小字。古くからの集落がありました。野猿街道にバス停・引切があります。この引切には次のような昔話があります。
”大昔よ、由木の松木と越野の境に流れてるよ、大栗川に でかい竹がはえててよ、その大竹を切っただと、そした ら竹の先が東中野まであるほどの竹だそうだ。その竹を片付けようとしたが、でかすぎた。そこで堀之内で切ったそうだ。そこを引切という。そして、越野と堀之内の境でかついだので、そこを片所(かたそ)というそうだ”
芝原:
同じく堀之内の旧小字。野猿街道にバス停・芝原があります。
望地:
(もうち)
大塚と松が谷にまたがる旧小字、大栗川の南岸にあり、もと大塚の中央部を占めていました。松が谷に望地公園があります。
多摩市には、小字名が町名になったものがあります。諏訪、豊ヶ丘、永山、鶴牧、唐木田がもとの小字から現在の町名になっ たものです。旧大字、小字にはその地の歴史を感じさせるものも多くあります。地名から歴史を知ることもその土地への馴染みを増していくことにつながるのではないかと思います。
<参考文献>
・多摩丘陵のあけぼの(横倉舜三著、多摩ニュータウンタイムズ社発行)
・八王子事典(八王子事典の会編著、かたくら書店発行)
・地図で見る多摩の変遷(財団法人日本地図センター発行)
初めてバスが通った日~多摩村昭和31年~
2004.9.21
今回は多摩ニュータウンが出来る前の多摩市(当時の多摩村)の交通の様子を見てみます。
京王堀之内や多摩センターから聖蹟桜ヶ丘へ行くのに今は車で20~30分で行けますが、今から40年以上前の多摩村(当時)では夢のような話でした。当時、村の中央部といわれた、関戸橋から熊野神社、村役場を通り、乞田、落合へ通じる都道(ほぼ現在の多摩ニュータウン通りに重なります)がありましたが、その道にはバスも走っていませんでした。当然、自家用車も普及していませんから、例えば役場の人が都内に出る場合などは駅までの間は歩いていくことがほとんどでした。自転車も一軒に一台か二台の時代でしたから、村の中央部にバスを通すことは村民の願いでした。
昭和26年の地図を見ると、前述の道は都道ではありましたが、幅は4mで砂利道であり、しかも両側が水田で地盤の弱いところもありました。バスを通すには幅4mでは他の車(オート三輪や馬車)とのすれ違いができないため、警察は難色を示していました。しかし、村には桜丘から落合までバスを通さなければならない理由がありました。それは、多摩中学校が関戸橋の東側に移設され、通学区域である落合地区の生徒に対して何らかの対応をしなければいけなくなったためです(落合から関戸橋まで約6km)。
昭和22年、多摩村に中学校の設置を決めましたが、当初は現在の多摩市公民館の位置にあった多摩小学校の教室を借りて開設されました。この多摩中学校が自前の校舎を持つためにいろいろな場所が検討され、当然、村の中央部にもってくるべきだという意見もありました。しかし、用地の確保が難しく、前述の場所に移設することになり、その条件としてバスを通すことが約束されました。当時の中学生は農村の農作業や家事の重要な担い手でもありました。そのため、通学に時間がかかることは家庭が中学生の労働力を当てにできなくなることを意味しました。
ちょうどこの頃、村会議員になった横倉舜三氏は中学生の通学問題を解決するため、村長とともに警視庁へ陳情に行き、実情を説明し、地元の困窮を理解してもらうことに努めました。この行動が功を奏し、警視庁の交通課長らが多摩村の道路事情の実地調査に来ることになり、関戸橋から村役場、乞田、落合の道を調査しました。このときは、すでに警察としては、バスを通すためにはどうすればいいか、という観点からの調査だったようで、待避所の設置場所やバスの運行について実際の道路状況をもとに確認していたという様子だったようです。この調査の数日後、待避所の設置等を条件にバスの運行の許可が下りたそうです。この頃、乞田の永山や落合などに電車が通ると考えた住民は一人もいなかったでしょう。バス路線沿道の住民のうれしさは格別だったと思います。その一例が待避所の設置です。村をあげての事業として取り組みましたが、用地の借り上げ工事は地元住民の労働奉仕で進められたとのことです。
筆者は昭和46年、唐木田付近を走るバスの写真をみたことがありますが、砂利道でバスがすれ違うのは難しいと思われる道幅の写真でした。バス初開通の頃も同じような道路状況だったのでしょう。非常な苦労をしてバスを通されたことが偲ばれます。
開通は昭和31年2月16日でした。その日の様子を「多摩丘陵のあけぼの~前編~」から引用すると、「落合中沢バス停は終点でもあり、折返し地点でもある。小泉角之助商店の前には朝から地元民がお酒や赤飯など用意して、一番バスの到着を待っていた。午前7時一番バスが中沢停留所(落合折返し場所)に到着した。~中略~ 始発の式といっても、地元の人達数人が開通を祝い、運転手さんや車掌さんにお酒や赤飯を出して、この路線の発展と安全を祈って乾杯をするという簡単なものであった。現代であればさしずめ運転手さんと車掌さんに花束の贈呈というところだろう。地元住民の喜びを表したささやかな気持ちであった。」とあります。
現在の車社会に慣れた私たちには想像しにくいかも知れませんが、公共交通機関として自分たちの「足」を持つことへの強い気持ちを当時の住民の方々は持っていた、そして、それは逆にそれだけ開けていない地域でもあったことを表していたと思います。これが私たちが今、住んでいる地域の原点であると思います。筆者はこの原点をしっかり踏まえることが大切ではないかと思っています。
<参考文献>
多摩丘陵のあけぼの(横倉舜三著、多摩ニュータウンタイムズ社発行)
地図で見る多摩の変遷(財団法人日本地図センター発行)
三多摩東京移管の真相
1999.5.5
自由党が二議席を獲得したのは、今でいう国政選挙の神奈川県選挙区にあたるのではないかと思います。国政レベルでの議席の多い少ないはわかりませんが、県議会レベルでの議席数は次の通りでした。
明治26(1893)年2月1日(この年の4月1日に三多摩は東京に移管されています)に神奈川県会議員の総改選が行われ、その結果、神奈川県会議員の大半を自由党が占めることになりました。三多摩では西・南多摩の7議席がすべて自由党員でしたが、北多摩の4議席は自由党ではありませんでした。
この時期の東京府会の定数は市部55名、郡部20名の75名で立憲改進党の勢力が圧倒的に強く多摩を東京に移管すれば東京では自由党の勢力は少数派となり、神奈川では自由党員の数が減るため、その勢力を削ぐことができるとの計算があったようです。
このように、「自由党撲滅のきっかけ」というより自由党の勢力分散を狙いとして三多摩の東京移管が進められました。
<参考>
自由党:
自由民権運動の中心的政党、フランス流の急進的自由民権論の立場で士族・豪農商の支持を得た。
立憲改進党:
イギリス流の立憲君主制を理想とし、都市商工業者や知識人などを基盤とした。
<参考文献>
多摩100年の歩み(多摩百年史研究会編著)
多摩・東京-その百年(鈴木理生著 多摩歴史叢書2)
市民のための八王子の歴史(樋口豊治著)
日本史事典(旺文社)
南多摩における自由民権思想の盛衰
1999.5.5
南多摩で自由民権運動を支えたのは、豪農と呼ばれるクラスの人々です。これらの人々は江戸期からの生糸の貿易などで経済的に余力のある層であり、村内では、村政担当者として政府の新政策に取り組んでいく人々でした。政府からは、学制や、徴兵令など国民生活や地方行財政に密着する大改革-近代国家へ脱皮するための国家という名で打ち出した新政策-が矢継ぎ早に出され、このことは、同時に豪農層の「政治化への引き金」にもなりました。
また、豪農層は生活に余力のある分「文化」としての「思想」に興味を持ち、外来政治思想を積極的に輸入し始めるようになりました。そして、現実問題として自分達の仕事をいっそう発展させるために、なるべく早い時期に西欧諸国と同じような議会制度を持った法治国家の実現を求めるようになりました。これには、自由民権思想を学習する「学習結社」とか「民権結社」と呼ばれる共同学習の場の存在が影響しているようです。
このような豪農の存在が民権運動の主体となり、さらには自由民権運動の中心的政党であった自由党と結びつくのも自然な成り行きだったといえそうです。
民権運動は初めの頃は政府と対立するものでしたが、しだいに政府と妥協・結合するところが出てきて、ちょうど多摩が東京に移管された頃(1890年代以降)から衰退していったとのことです。
<参考>
自由党:
自由民権運動の中心的政党、フランス流の急進的自由民権論の立場で士族・豪農商の支持を得た。
立憲改進党:
イギリス流の立憲君主制を理想とし、都市商工業者や知識人などを基盤とした。
<参考文献>
多摩100年の歩み(多摩百年史研究会編著)
多摩・東京-その百年(鈴木理生著 多摩歴史叢書2)
市民のための八王子の歴史(樋口豊治著)
日本史事典(旺文社)
由木村
1999.10.6
<由木村>
由木村は南多摩の東南部に位置し、東経139度20 分、北緯35度40分の所にあり、東西約8キロ、南北 約5キロ、西縁の海抜約210米、東縁の海抜約80米 の数条にのびた多摩丘陵中御殿峠砂礫層に属し、西は大塚山より発した大栗川が中央の低地を東流し、丘陵を開いて多摩村に続いております。
由木はもと、多摩郡横山庄由木領に属し、その後、由木領多西郡に属し、慶長年間は武蔵国多摩郡に帰し、明治になって神奈川県に属し市町村制施行に伴い11箇村 (鑓水、中山、上柚木、下柚木、南大沢、松木、越野、 別所、堀之内、東中野、大塚)を区合して由木村となり 東京府に編入せられ、現在に至っております。
山林は全面積の60%、田畑は40%で、農家一戸の 経営面積は、田約2反、畑約7反、戸数は1006戸、 男女別総人口は6261人となっております。
由木村はその昔、上柚木と下柚木の二つに分かれており、由木氏が住んでいた所だといわれております。由木氏には二つあり、一つは横山党の一族で、他の一つは西党の一族です。
横山党の一族では、横山経兼(つねかね)の三男、六 郎保経(やすつね)という人がはじめてこの村に住み、 西党の一族では、平山眞季(さねすえ)の叔父、由木五 太夫重直という人がはじめてこの村に住み、下柚木の殿 ヶ谷邸を構えて由木氏を名のったといわれております。
--ミニ解説--
★多摩丘陵:多摩丘陵は西端の高尾から東端の鶴見まで の長さが約38kmあり、その幅は西部の北野-相原間でやく5km、中部の大丸-町田間が約12km、 東部の溝口-上星川間で約15kmあります。高度は西縁の関東山地に接するところでは約230mですが 東へ行くほど低くなり、東縁の下末吉台地に接するあ たりでは80~70mになります。多摩丘陵には高度 約110mの線に沿って高度差約40mの急崖があり、 これを境として、西半部を多摩上位段丘(T1面)と いい、東半部を多摩下位段丘(T2面)といいます。
★御殿峠砂礫層:多摩丘陵西部の七国峠から平山城址公園・百草園、また多摩美術大学から尾根幹線方向、落合・連光寺・矢野口に至る標高約200~140mの なだらかな丘陵に分布する地層。とくに尾根幹線沿いの丘陵部は基盤となる平山層の上に御殿峠砂礫層が重 なっている。プランヴェールはこの平山層に届く基礎 杭を打ち込んであるので地震に対しても頑丈であると の説明を購入時に受けた記憶があります。
★大塚山:鑓水の北端、片倉町との境にある山。高さ 213.4m、別称:大塚台、鑓水嶺。山頂からは十 ニ州を臨むといわれる。道了堂があり、大塚山公園として整備されている。
★大栗川:由木地区鑓水の御殿峠を水源とし、同地区内 を東流、多摩市に入り多摩川に注ぐ川。流長15.9 km、流域25.6k㎡。大庫裡川とも書く(図会) 上流部は鑓水川ともいう。多摩ニュータウン計画地域 の北部を流れ、両岸から注ぐ支流とともに由木地区全 域の水を集める。ほぼ全流域にわたって河川改修工事が終っている。
★横山党:武蔵七党の一つ。現横山町から多摩丘陵一帯 相模北部、甲州郡内、北武蔵と広範囲に分散していた。敏達天皇8代後裔小野氏の子孫、武蔵国造の子孫と称するが系譜は不詳。保元・平治の乱で活躍し、12世紀初頭には反逆者として追討を受けたが屈せず、1213年(建保1)の和田合戦では姻戚関係から和田義盛方となり、秩父一門、三浦一門、鎌倉権五郎景正など在地の有力武士団に攻められ滅んだ。
★西党:武蔵七党の一つ。日奉連の子孫と称す。由井、小川などの牧を管理。府中の西に本拠を置いたので西党といったという。多摩川・浅川(小川、平山、川口、二宮、由井、立川、駒江、由木、長沼、田村)などに集結。始まりは由井牧に関係ある土豪であったと考えられ、小川氏はその分かれである。弐分方町新井の報 恩寺山は由井宗弘の居館跡だといわれる。
<参考文献>
由木音頭解説
八王子辞典
東京都地学のガイド
別所
1999.10.16
<別所>
薬師様と蓮生寺
薬師様のお堂は古いもので、天正16年の火災で焼け宝永2年に再建したもの。松平二郎左ヱ門の寄進にかかる薬師の木像は付近の長池より出現したといわれております。
霊験あらたかで秘仏とされ戸帳を固く閉じ住僧と言えども親しく拝することができませんでした。今、その像を見るに、面相威望なり、凡工の作とも思われず、年々7月22日に市があり、相撲を挙行しました。今もその時の相撲に使った菊の御紋のはいったまんまくがあるといわれています。山門は取り払われてあとかたもないが、護良親王お筆になる「由木山」の扁額があります。蓮生寺の草創は古く、東鑑によると頼朝が常盤御前のお腹におったとき腹帯を持って上がった円浄房という坊さんが京都から来て創った寺だと言われており、その後頼朝は円浄房を鎌倉に呼び、別所の田畑1町歩を与えてその面倒を見たということです。
--ミニ解説--
★別所:市の東南端、大栗川の支流別所川の流域に位置する。1964年(昭和39年)由木村の八王子市への合併により、同村内の旧大字別所が八王子市別所となった。世帯数87、人口 260江戸期の別所村、南端の別所川水源地に長池、蓮生寺、日枝神社がある。
★別所川:由木地区別所の南端の谷にある長池を水源とし、北流して大栗川に注ぐ川、谷戸川ともいう。
★日枝神社:祭神国常立尊(くにのとこたちのみこと) 例祭日8月末日曜日。創建年代は不詳。1695年(元禄 8年)社殿を再建。千代田区永田町の日枝神社を奉斎 したと伝えられている。
★蓮生寺:「吾妻鏡」にも記録のある八王子市別所の蓮 生寺は、源頼朝の護持僧だった円浄坊が、寿永元年 (1182)に建立したという古刹です。この遺跡からは、建物跡や鍛冶場跡、井戸などとともに国産の陶器、中国製青磁碗、白磁碗などが発見されました。このことは、平安時代にすでに、この地に寺を建立し、運営できる豪族がいたことを示しています。
蓮生寺本尊の木造慮遮那仏座像は平安時代の作で、昭和36年(1961)、薬師如来立像などとともに(計13点)、都の文化財に指定されました。
★長池:別所川水源の池。上池と下池の二つの池があり自然が豊かに残り「生きた植物図鑑」といわれていた。蓮生寺薬師堂の本尊薬師如来立像はこの池の水底から出現したと伝えられる。
<参考文献>
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由木音頭解説
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八王子辞典
野猿峠の水のみ場
2000.1.22
「ふるさと八王子」(昭和55年八王子市発行)の本に載っていた話(抜粋)とその訪問記です。
野猿峠の水のみ場(昭和53年12月1日広報掲載)
野猿峠の頂上、バス停のわきにコンクリート製の大きな井戸のようなものがある。右上には野猿の姿 が刻まれ、峠とのかかわりをしのばせるが、今は枯葉とほこりにまみれ、だれも振り返って見ることもない。
昭和の初め、由木と八王子の町中とを結ぶ唯一の道であったこの野猿峠は、狭く、かなりの急坂だ った。峠をこえるには一息にというわけにはいかず、人も馬も途中で休憩をとらねばならなかった。
つまり、この井戸のようなものは馬や牛の水のみ場であった。
水は、現在絹ヶ丘団地になっている山の中腹から竹のくだで運ばれた清水である。
<中略>
昭和30年代に入って自動車が一般に普及するまで、ここで水をのみ、馬や牛といっしょに休んで いる人の姿が見られたという。
<後略>
現在は(平成11年4月25日訪問)
野猿峠は道幅が広がったとはいえ、かなりの勾配で登らなければならない。頂上にあるバス停に立って峠の両側を見渡すと、その勾配のきつさがよくわかる。現在のように整備されていなかった昔の道を荷物をたくさん積んだ馬が登ってくるなら、峠で一息入れたくなるのもよくわかる。バス停のそばに、今でも水のみ場があった。でも、何も表示があるわけではなく、果たしてどのぐらいの人がこの水のみ場のことを知っているだろうか。 昔、この水のみ場のまわりは少しばかりの広場となっていて、人馬が休憩していたのだろう、と思いを馳せた。
何気なく水のみ場の中をのぞきこむと、昨夜来の雨でたまった水が白くにごり、私の影にびっくり したボウフラがあわてて水の中にもぐっていった。
堀之内
2000.6.29
<堀之内>
堀之内とは堀をめぐらした土地のことで、多くは豪族の居館地に名づける場所であり、松木部落と併せて語るべきであったかも知れません。この地を通る旧道は相州津久井郡根古屋辺より江戸に至る道で徳川時代道志川の鮎を江戸城に献上するため、人夫を仕立てた所であり、そこを鮎継場と唱えたのでした。
--ミニ解説--
★堀之内:市の東南部、大栗川中流域の両岸にまたがる。1964(昭和39)年由木村の八王子市への合併により、同村内の旧大字堀之内が八王子市堀之内となった。世帯数1495、人口2824。江戸期の堀ノ内村。北部は高幡丘陵・百草丘陵から寺沢川の流域にかけて、南部は大栗川と乞田川の間の丘陵上にまで広がる。中央部を大栗川が東流し、北岸を野猿街道、南岸を多摩ニュータウン通りが走る。南部には京王相模原線が通り、京王堀之内駅がある。1986年西端の一部が南陽台2~3丁目となる。北部の丘陵上に東京薬科大学・東京農工大学多摩試験地、平山城址公園、全農連多摩グラウンドがある。保井寺・善照寺・龍生寺阿弥陀堂・南八幡宮・八幡神社・秋葉神社・斎藤稲荷社、府中カントリー クラブがある。1989年、東南部の京王相模原線以南の地域が別所2丁目に編入された。
★あゆ道:風土記稿の松木村その他の項に出る道の名。「相州津久井より江戸への道」の通称で、道志川産のあゆを将軍に献上する運搬路であったという。
★南八幡宮:堀之内。祭神応神天皇。例祭日8月30日 1629(寛永6)年北条氏の家臣横倉伊予守、井草小田肥後守により南八幡を勧請。1658(明暦3)年、1718(宝永7)年、1774(安永3)年と再三社殿を再建。1941(昭和16)年本殿覆屋と拝殿を再建した。
★北八幡神社:堀之内。祭神誉田別尊。例大祭8月30日。 創建年代は不詳。滝山城主大石定久の子孫大石宗虎が宮竹に奉斎したともいわれ、また井上七兵衛が木曽義仲の迫善のため、社殿を東北(鬼門)に向けて建立したともいわていれる。1596(慶長1)年社領9石3斗を拝領した。
<参考文献>
由木音頭解説
八王子辞典
ライフスタイル革命
1998.5.20
多摩ニュータウン学の基礎的なキーワードを取り上げ,地域に密着した問題を考えてゆきたいと思います。今回は、ライフスタイル革命です。
私たちの生活の空間的拡がりを考えてみますと家族、地域、職場という大きく3つの領域があります。そのなかでも、とりわけ家族と職場が大きなウエイトを占めています。それに対して地域は、他の二つの山脈の谷間に埋もれた空間といえます。しかし、自己実現を図る第3の場としての地域という意義を今回考えてみましょう。
現在、家族のあり方は「夫婦別姓」に代表されるように多様になりつつあります。職場も、終身雇用、年功序列などという従来の日本的経営も揺らぎつつあります。大きく日本社会全体が新たな21世紀の時代に向かって大きく転換しつつあります。地域も例外ではありません。従来は、全日制市民と呼ばれた主婦たちや古くから住んでいる人によって地域活動は支えられてきました。しかし、これからは定時制市民と呼ばれた男性や新住民も、地域活動に「貢献」、「参加」するのではなく、「自己実現を求めて自発的に参画する時代」がやってきているのではないでしょうか。それを教えてくれたのは、95年の阪神淡路大震災でした。
個々の生活を支えるのは、行政でも、企業でもなく、自分自身と家族であり、そして地域に暮らす人々の協力・連帯であったことを教訓として示していたと思います。(100万人を越えるボランティアの存在については次の講座で述べたいと思います)
次に、生活を世代的にみますと、現代のライフスタイルが極めて偏ったものとなっています。それは『三過ぎ』状態といわれます。すなわち「子供は勉強し過ぎ、成人は働き過ぎ、高齢者は暇過ぎ」といわれるものです。今後は、「子供には遊びも、成人には学習も、高齢者には仕事も」というバランスのとれた、多様なライフスタイルが選択できるような社会構造への転換が求められています。どの世代にも、遊び、学 習、余暇の3つの要素がバランスよくなければなりませ ん.
以上のように,私たちの生活の空間及び世代的なアンバランスについて述べてきました、そこで、バランスのとれたライフスタイルを身近な地域社会から築いていくことが重要となります。それぞれの世代の持っている能力を,お互いに交流させることで可能となります。「実験都市」といわれる多摩ニュータウンですが、新たな21世紀型のライフスタイル革命をこの長池 から始めてみようではありませんか。
NPO
1998.7.1
これまでの日本社会は、公的な部門は行政が、私的な部門は企業がそれぞれ大きな地位を占めてきたといえます。それに対して、第3の部門としてボランティア活動をはじめとする「公益非営利活動」という市民が主人公になった部門を確立させようとする「特定非営利活動促進法(NPO法)」が3月に公布され,12月1日をもって施行されることになりました。NPOとは、Non Profit Organizationの頭文字をとったもので、非営利的組織です。行政組織ではなく(非政府性)、利益追求ではない(非営利性)、公共の利益のために自発性に基づき活動する民間組織をいいます。
経済企画庁が、全国規模で行った市民活動団体の調査では、85786団体あったそうです(「市民活動レポート」)。そのサンプル調査の結果では社会福祉系が37%を占め最も多く、以下、地域社会系、教育・文化・スポーツ系、環境保全系、保健医療系、国際交流系となっていました。しかも、活動 費が10万円以下が1/3を占め財政規模が脆弱であることもわかりました。法人格の必要性を感じたことのある団体は12%であり、全国でおよそ一万程度の団体が法人格の必要性を感じていることになります。それに対して、アメリカでは既に100万以上の団体がNPOとして福祉、環境、教育などの分野で活動し、アメリカの社会を草の根で支えていると言っていいでしょう。
今回のNPO法の意義は、市民団体が比較的容易に法人格を取得できること。そして、組織、会計を明確にして、透明性を持った組織運営が期待されることなどがあります。ただ、問題点も残されています。寄付金控除等の税制優遇が認められなかったことです。税率においては、営利法人と同じ法人 税率で、寄付も原則として損金算入が認められないことになり、この意味では営利法人と変わりません。そのうえ、営利法人とは異なり社員に配当も出来ず、金銭面ではNPOに対して極めて厳しい法律となっています。そのため、法律には3年後の見直し規定が盛り込まれていることからアメリカのよ うな寄付金控除措置等の税制優遇措置導入が大きな課題として残されています。
問題点も残されている法律ですが、この法案の趣旨が生かされるか否か は、まさに日本の市民社会の成熟度そのものがテストされているように思い ます。多摩ニュータウンには多くのNPOが育ってゆくシーズ(種)があります。この長池からもNPOが生まれ育っていくようにみんなで応援しようでは ありませんか。
田園都市と近隣住区論「ニュータウンの原点」
1998.9.13
ニュータウンは小綺麗な街だけど、歴史や人の温もりが感じられない街だよ とよく言われますが、それに対して半分同意しながら、半分反発を感じるのは私だけでしょうか。歴史と伝統を感じさせる京都や奈良、さらに秋田県角館や山口県津和野といった小京都といわれる城下町にしても、実は作られた当時はやはりニュータウンであったはずなのです。
さて今回のお話はニュータウンの思想的源流に遡り考えてみましょう。近代のニュータウンを考えるときに2人の人物を忘れてはなりません。一人は「田園都市論」のハワード(E.Howard)というイギリス人です。本年は「田園都市」を提唱した『明日の田園都市』が刊行されてちょうど百年目に当たる記念すべき年です。その思想は、都市と農村のよいところを兼ね備えた都市の建設にあります。周囲を農業地帯によって取り囲まれ、健康的な住居、土地は公有化され、開発利益は社会的に還元され,産業をもつ自立都市を目指したものでした。レッチワースやウェルウィンというというイギリスの都市が典型とされています。この思想は、日本に明治の末期輸入され、大正の関東大震災後に成城、国立、大泉なとどともに田園調布が作られたことはよく知られています。
もう一人は、「近隣住区論」のペリー(C.A.Perry)というアメリカ人です。近隣住区といいますのは、都市を構成する一つの都市計画単位(unit)で、1小学校区を単位として、歩車道分離、公園緑地を確保し、商業施設を配置するものでした。1930年代のセント・ルイスやニューヨークの都市計画に取り入れられました。多摩ニュータウンも21の住区によって構成されています。ここ長池地区は12住区(堀之内・別所)と13住区(松木)と2つの住区より成り立っています。ただ日本の住区は中学校単位とされているところが異なります。多摩においては1住区の計画規模は、面積100ha、住宅戸数3300戸、人口12000人とされています。住区の中に日常生活に必要な施設が配置されています。
確かに日本のニュータウンは欧米のニュータウンの手法を適用されて作られてはいますが、その実態は欧米のものとは大きく異なったものとなっています。ハワードの田園都市も人口32,000人を想定したものでした。さらに、千里や多摩にしても日本のニュータウンは当初、域内に職場はなく、大都市に通勤するためのベッドタウンとして計画されました。
2人の先人の業績は都市計画の理論としてだけではなく、実はコミュニティ運動という社会改革運動の思想がその背景にあったことは今日忘れられがちです。そこが彼らの理論を理解する際に重要な点であることを強調しておきたいと思います。さらに興味関心のある方は、ハワード著『明日の田園都市』鹿島 出版会,ペリー著『近隣住区論』鹿島出版会を秋の夜長一読されることをおすすめします。
新住区域と区画整理区域
1998.12.7
多摩ニュータウンは2種類の開発手法によってつくられています。丘の上の中・高層集合住宅地が「新住区域」で、丘の下の谷戸と呼ばれた幹線道路沿いの平地部分が「区画整理区域」です。それぞれの区域は、新住宅市街地開発法(新住法)と土地区画整理法という別々の法律に基づき整備されたものです。新住区域は多摩ニュータウンの78%を占め、区画整理区域は22%を占めています。前回第3講で述べました「近隣住区」の手法が導入されているのは、この新住区域です。
昭和30年代当時の新市街地の開発手法としては、土地区画整理事業と一団地住宅経営事業が一般的でしたが、それぞれに難点があり,大規模な宅地開発に適した新たな手法が望まれていました。1963年に「健全な住宅市街地の開発及び住宅 に困窮する国民のための居住環境の良好な住宅地の大規模な供給」を図ることを目的とする「新注法」が成立しました。この法律は、土地の強制収容権をもち しかも一住区1万人以上の大規模な住宅団地を想定したものでした。早速この法律は千里ニュータウンの開発に適用されることになりました。
多摩ニュータウン開発が1965年12月に都市計画事業決定されたのは、全域が新住法に基づくものでした。しかし、その後多摩ニュータウン開発の全容が明らかにされると、旧来そこに暮らし生活を営んでいた人々は、ニュータウン開発に不安を抱くようになり、反対の姿勢を示すようになりました。そこで、区域全体を新住事業で行うのではなく、谷戸部の既存集落及び田畑の部分は、区画整理事業として、旧来の土地の地権者が代替え地として居住し、店を開き生計が立てられるような方式が導入されることになりました。
新住区域は確かに良質な住宅地を形成してはいますが、街角のしゃれたお店は出来なく、人間味のある自由さと活発さに欠けます。それに対して、区画整理区域は幹線道路沿いということもあり、ロードサイドショップが建ち並びバイパス風景を呈しています。また、いわゆる新住民と旧住民という人々が別々の区域に住むようにもなってしまいました。今後は、新住区域に多少の自由さ、区画整理区域に住民の意見を反映させる仕組みなど新たな手法が望まれます。
千葉ニュータウンは新住事業によって行われ、港北ニュータウンは土地区画整理事業によって行われています。このように新住事業と区画整理事業の二刀流の開発は多摩ニュータウン開発の特徴ともなっています。
住区センターと地区センター
1999.3.16
多摩ニュータウンの商業施設については、3つの階層に計画的に配置されています。まず、第4講で述べた「近隣住区」には「住区センター」(近隣センター)として日常生活に必要な施設として、日用品店舗、スーパー、郵便局、診療所などが設けられています。
次に、住区をいくつか集めて「地区」が構成されます。永山駅と南大沢駅のように駅を中心にした「地区センター」(駅前センター)があり、買周り品を中心に専門店、娯楽施設や銀行など都市的サービス施設が配置されています。さらに、多摩ニュータウンの中心地としての多摩センターは「中央センター」(都市センター)と位置づけられ、デパート、大型スーパー、ホテル、警察、郵便局及びパルテノン多摩のような文化施設が立地されています。このように毎日の最寄品は「住区センター」で済ませ、週に一回程度「地区センター」に買い物に行き、たまに「中央センター」に買い物によくことを想定していました。
ところが、商業を巡る環境は近年にわかに変化を遂げました。大きな変化は「住区センター」の衰退です。平成9年の時点で、12の住区商店街の214店舗中33店舗が空き店舗となっています。特に、諏訪・永山の住区センターや鹿島住区センターなどでは空店舗が目立ちます。もう一つの顕著な変化は、ニュータウン通り沿いの「ロードサイド商業地区」の賑わいです。この点については多言を要しないでしょう。結果として、当初計画されていた商業環境がドラッティックに変化しています。
それでは、「住区センター」衰退の原因はどこにあるのでしょうか。生活スタイルの変化とともに、その成り立ちと深い関わりがあるといえます。住区センターの小売店舗は、この地域で農業を営んできた方への生活再建という意味で優先的に出店されました。そのため「1業種1店舗」と店舗間の競争が押さえられました。さらには、住区センターには徒歩でくることを想定しているために、初期に作られた所には駐車場スペースがほとんどありません。結果として、日常品まで駅前の「地区センター」の大型スーパーで買い物を済ませたり、週に一回車で「中央センター」に買い物をするなど、現実の消費行動は、当初の計画された行動とは異なるものとなってきました。
それでは、駅前やロードサイドの大型ショッピングセンターだけあれば私たちの生活はそれでよいのでしょうか。わたしは、今こそ「住区センター」のコミュニティ活動の拠点としての再生(ルネサンス)が逆に必要だと考えます。調査でも、「日用品の買い物がより便利にできる住民に密着した買い物の場」を住区センターに求める人が8割もいます。さらに、新たなライフスタイルに対応したサービスを提供する店舗や人々が交流しあうサークル活動やボランティア、NPOの活動の拠点などを設置することも考え られるのではないでしょうか。また、少子・高齢化の時代に突入してゆく現在、高齢者対 応サービスの機能も身近な「住区センター」に求められているのではないでしょうか。私た ちのコミュニティの活動の拠点としての「住区センター」を作り上げてゆきたいものです。
街区公園と地区公園
1999.6.1
多摩ニュータウンの良さは、緑豊かな環境にあると言えるでしょう。私が実施した居住環境調査 (97年)でも、満足度の高かった項目は、①緑の豊かさ、②日照・風通し、③町並みの美しさ、④ 公園の順となり、緑と公園の評価が高くなっていました。
公園については、70年3月に策定された「多摩ニュータウン公園緑地計画」に基づいて新住事業と区画整理事業によって整備されてきました。さらに緑豊かな環境を作り出すために「緑とオープンスペースは住区面積の30%以上を確保すること」が取り決められました。その結果、自治体の管理する都市公園一人当たりの面積では、東京都の中では多摩市が最も広くなっています。都下多摩地域平均の約2倍、特別区平均の約3倍の面積があります。なんと贅沢な地域に住んでいるのでしょうか。
ニュータウンには総合公園として多摩中央公園と稲城総合公園があります。この中央公園を除き ますと、公園は3種類に区別され計画的配置がされています。各住区ごとに4~6ヶ所程度に「街区 公園」(101ヶ所)。各住区ごとに2ヶ所程度に住区居住者が利用する「近隣公園」(34ヶ所)。さらに、2~3住区に1ヶ所の割合で「地区公園」(9ヶ所)が整備されています。(注:数字は96年現在の新住地区について)FUSIO地域を例にしますと、長池公園、内裏公園、上柚木公園、富士見台公園は「地区公園」、秋葉台公園、別所公園、蓮生寺公園、大平公園などは「近隣公園」となります。
このように快適な緑の空間を提供してくれる公園ですが、課題がないわけではありません。ニュータウンの公園はほとんどが都市公園であり、旧来の雑木林が残されているわけではありません。その点、蓮生寺公園や長池公園は比較的多摩丘陵の植生が残されている貴重な公園だといえます。2番目に、公園の中にはあまり利用されていない所もあります。今後は、高齢化・少子化という状況を受け、公園のリニューアルが必要となります。ユニバーサルデザイン、防災面での機能兼備、ビオトープなど生態系への配慮などが求められます。さらに、多摩市の「とちのき公園」のような公園を作る段階から、住民の意見を採り入れた住民参加型公園整備の発想が必要ではないでしょうか。3番目に、維持・管理面についても、世田谷区の羽根木プレイパークのように住民参加で子供の遊び場を作りあげています。多摩市では、雑木林の維持管理をしながら椎茸栽培や炭焼きなどを行っている「ドングリ山」や、旧東永山小学校等の法面にある梅の木を市民団体が剪定・ 管理をしている事例もあります。
むろん住み手である、私たちにも問題がないわけではありません。自分の庭やベランダを花で飾ったり、団地内の草取りは行なわれますが、地域の道路や公園の維持・管理は市任せになっていないでしょうか。多摩市では公園愛護会が組織され、公園の花植や散水及び除草等の管理が行われています。公園という公共空間を住民自ら管理することを通じて、地域のコミュニティのつながりや、地域に対する愛着も芽生えてくるのではないでしょうか。公園も、私たちの貴重な共有財産です。
次回は、「道路」についてを予定しています。日頃道路についてお考えになっていることがあれ ば、どうぞご意見をお寄せ下さい。
「歩車分離」から「歩車共存」へ
1999.12.11
多摩ニュータウンの道路は、大きく都市幹線道路、地区内幹線道路、住区幹線の3種類に分けられます。道路構成としては、東西の線と南北の線で構成されています。東西には3本の幹線が横断しています。南に府中~相模原線(野猿街道・鑓水街道)、中央部にニュータウン通り、北に尾根幹線があります。それに対して、南北には住区を横断し鉄道駅に接続し、八王子、日野、町田につながる道路があります。長池地区でいいますと、日野~町田線になります。
第4講で述べた「新住区」においては、当初「歩車分離」という考え方で道路は造られていました。車の通る道と人の歩く歩行者専用道を完全に分離する考え方です。ところが、時代の経過とともに道に対する考え方は変化してきました。諏訪・永山地区では家の前まで車が入れないところもあります。「近隣センター」も車で買い物に行けないなど不便な点も明らかになってきました。モータリゼーションの進展で車というものが生活に欠かせないものとなってきのです。駐車場についても当時は公団で10%、公社で30%の戸数の整備しか考えていませんでした。
そこで新たに登場してきたのが「歩車共存」という思想です。1970年代、オランダで「ボンネルフ」(woonerf)直訳すると「生活の庭」という考え方が提唱されました。従来の「歩車分離」という考え方は、裏返すと車の通行にじゃまな歩行者を道路から排除するという意味では車優先ということになります。そこで「コミュニティ道路」と呼ばれる、歩行者を優先させ、車との共存をはかる試みがあります。写真は多摩市唐木田地区の例ですが、住宅地の中まで車が通行できますが、スピードが出せないように道路を蛇行させたり交差部分は石畳にしています。
NTにおける道路の課題は、地区内は道路整備は進んでいるのですが、区域外との接続部分がボトルネックとなっていることです。他方、NTの街路の楽しさは、四季折々に私達を楽しませてくれる街路樹の多様さです。街路樹は、緑のスペースとしても公園に負けないボリュームになっています。車を置いてふと散歩をしたくなるような「歩いて楽しい道」がいいですね。道路は人や車が通行するだけの空間ではないはずです。道という空間に、コミュニケーション、遊び、景観、バリアフリーというアメニティを取り入れながら、道路がいわば「コミュニティの庭」として再生させたいものです。その中で、どうしたら人と車とが共生できるのかが、私たちの大きな課題として残されています。もう一度,皆さんの家の前の道路は何のための道路か考えていただければありがたいと思います。
長池地区住民のコミュニティ意識
2000.3.19
多摩ニュータウン学会コミュニティ部会と大妻女子大学社会情学部炭谷研究室では、見附が丘連絡 協議会とFUSION長池の協力をいただき、昨年12月に「長池地区住民のコミュニティ活動と地域資源 調査」を実施しました。今回の基礎講座はその結果の一部をご報告したいと思います。
<居住性>
居住性項では「気に入っている」が約80%。しかし定住性項は「住み続けたい」が54.1% であった。他の地域調査では、年齢に比例して定住性は通常高まるのに対して、長池地区では異なる結果となった。年齢別に見ると[図1]のように、50代では「大変この地域を気に入っている」が54. 6%と過半数を占めているのに対し、40代は「どちらかといえば気に入っている」が56%と過半数を占めている。このように、50代では退職後もこの地域に住み続けたいと考えているのに対して,40代ではライフサイクルに合わせた移住を考えていることが推測される。平成以降になって街開きされたポストバブルの特徴が現れているといえる。
周辺環境に関する評価は、「緑の豊かさ」と「町並みの美しさ」という項目には満足している一 方、「通勤に不便」、「医療施設」や「公共施設」に乏しいという一部日常生活の不便さも指摘されている。
<PC・NPO関係>
PC所有率は6割に達している。野村総研調査でもPCの世帯普及率は36.8%である ことから,有効回答世帯における所有率は高い。なお、ネットへの接続率は,野村総研調査では 41.9%に対して、長池地区では46%とこれも上回っている。NPO・FUSION長池については8割を越える方が活動の存在を認知していることがわかった。「ぽんぽこかわら版」は「一通り全部に目を通す」6 割、「関心のある記事にだけ目を通す」2割となり、こちらも8割以上が目を通していることがわかった。NPO・FUSION長池への要望として「地域住民を結びつける核としての活動を期待します」、「若い家族ばかりの活動で40歳以上の活動または、サークル等があると良い」という期待が寄せられた。
<ボランティア活動>
「参加していない」56.5%、それに対して「参加したことがある」30.6%、「積極的に参加している」12.9%となり、回答者の参加度は高い。この地区での活動の特徴は[図 2]のように,男女別に見ると、男性の方が参加率が高いところにこの地区の特徴が見られる。 最後に、長池地区におけるコミュニティ活動について調査結果から3点の課題を指摘して結びとしたい。第1に高年齢者も参加しやすいメニューづくりと,第2に女性達の活動のネットワーク。第3に活動の情報提供が必要となる。
橋梁は生活の架け橋
2000.6.22
多摩ニュータウンは坂と橋のまちです。NTには142の公団施工の橋があります。1.長池見附橋、2.くじら橋、3.さえずり橋、4.ホームラン橋、5.剣橋、6.弓の橋、7.かざみどり橋、8.バルコニー橋、9.夕焼け橋、10.鶴乃橋、11.風の橋、 12.るんるん橋、13.ささやき橋など楽しくなる名前がたくさ んあります。土木学会賞を受賞した橋も長池見附橋、鶴乃橋、くじら橋の3橋あります。皆さんはいくつの橋をご存知でしょうか。
NTの橋はその性格によってa.ランドマーク&シンボルとしての橋(1,2,3,4,5,6,)、b.集う橋・ふれあう橋(7, 8,9)、c.地域と調和した橋(10),d.連続性・統一性を考慮した橋(11)の4つに分けられます。いずれの橋も周辺景観との調和に配慮しながらつくられています。
手元資料にある公団施工の132橋についてみると、八王子市区域に9橋、多摩市区域に127橋、稲城市区域に12橋となり、初期開発された多摩市区域に集中しています。さらに、橋梁は道路橋と歩行者橋に分かれますが、道路橋は12橋で、そのほかは歩行者橋となっています。それには理由があります。 多摩NTは多摩丘陵を開発した地域で、「歩車道分離」(第7 講)に基づき道路計画されました。車道をまたいで、多くの歩道橋が建設されました。「近隣住区論」の徹底した多摩市地域で最も顕著な傾向がみられることになりました。
NTの橋梁は次のような4つの時期に区分けされます。第1 期 機能追求型(71年~75年/18橋),第2期 形態追求型(76年~ 80年/47橋)、第3期 環境重視型(81年~86年/40橋)、第4期 総合計画型(87年~現在/26橋)となります。最近の橋梁設計思想は、地区単位の橋梁を群として総合的観点から捉え、橋梁群相互の調和を図るとともに、街づくりの理念や思想を橋梁自体に反映させることにあります。その代表として別所地区があり、長池見附橋がそうです。長池見附橋は長池地区のシンボルとなっています。
さて,私が好きな橋を紹介させてください。「405号線道路橋」(写真)で固有名がありません。蓮生寺3番街と2番街の間にある蓮生寺公園へのゲートをなす重複アーチ橋です。曲線を主体にしたゆるやかなデザインはグリム童話の世界に誘われる思いです。橋梁は実用性とともに、そのデザインがア メニティ性を高め、居住者の生活を静かに支え、見守るものです。その意味で橋梁は生活の架け橋といえます。
多摩地域広域都市の競争と連携 多摩都市モノレール
2000.9.19
多摩地域の交通は鉄道も幹線道路もほとんどが都心に向かって放射状に整備をされています。多摩地域の南北公共交通路は長年の課題でした。多摩都市モノレールは、本年1月多摩センターから立川を経由して上北台までつながりました。多摩地域に南北16キロの動脈が完成したことは画期的なことです。しかし、1日の想定乗車人数は11万人に対して、実際はその半分程度に留まり苦戦を強いられています。
昨年、沿線住民の方々にアンケートを実施しました。立川と多摩センターの都市評価の結果 は図のように、「近代的」と「暮らし易さ」という点は多摩センターの方が優れている反面、「庶民的」、「にぎわい」、「買い物」については立川の方が優れているという結果となりました。しかも、モノレールのプラス効果は立川の方が、マイナス効果は多摩センターの方がそれぞれ上回っていたことは大変気がかりです。
モノレールの影響について二つの異なった側面から考えてみましょう。一つ目は都市間競争です。各都市が個性をいかした街づくりに取り組み、沿線住民にとって多様なサービスを享受できる反面、不安な面もあります。企業の支社、支店が立川に移りつつあります。二つ目は、モノレールを通じて広域都市圏の萌芽が胚胎したことです。立川市16万人、日野市16万人、多摩市14万人の合計46万人の潜在的広域都市圏の誕生です。そのためには、行政間の連携や各地 域に散在する人的資源、商工会議所、農協、大学等様々な機関・施設のネットワークづくりが必要不可欠となります。さらに、一つの都市圏として自立するために必要なことは働く場の確保です。SOHOのような新しい情報産業形態をどのように根付かせてゆけるかがキーポイントい なります。TNTの問題を考えるとき、広く周辺地域との連携、競争といった広域的にまちづくりを考える視点が必要となります。モノレールをどう利用してゆくのか、その知恵が各地域で試されることになります。
多摩ニュータウンの未来――世界の都市に学ぶ――
2001.10
はじめに
「多摩ニュータウン」は、海外の先進都市を参考に造られた街であるだけに、都市基盤は明快で計画的なまちづくりが進められてきましたが、ここに来て東京都の、ニュータウン開発からの撤退や都市基盤整備公団の民営化の動向など、今後のニュータウン開発を取り巻く環境が大きく変化しています。そんな中で時代は「官主導から民主導」「参加型のまちづくり」と言われているものの、改めて「民」とは、「参加型」とは何かを考えさせられることも多く、ここで、「住み続ける者としての多摩ニュータウンのあり方」について海外のまちづくりを参考にして考えてみようと思います。
ホットスポットとコールドスポット
今後、日本の人口は減少すると予測されています。しかも100年間で半分にもなり、昭和の初めと並ぶ人口です。同様に多摩ニュータウンの人口も減少します。多摩市域ではすでに人口が減少し始めていますし、マンションブームでにぎやかな八王子市域や稲城市域でも、建設が一段落すると人口減少が始まるでしょう。
今は民間の事業者が大量に住宅供給を進めていて、一部の地区には人口が増えて元気がありますが、一度それがとまると、次第に元気を失っていくと思われます。こうした人口の減少に伴って行政サイドでは戦々恐々としているようですが、結果として多摩ニュータウンの中でも人口が集まるホットスポットと人口が減少するコールドスポットが生まれると思います。
ニュータウンの草分けレッチワース
計画人口30万人の多摩ニュータウン開発が30年間で約70%進んだのに対して、ニュータウンの草分けであるイギリスのレッチワースでは3.2万人の計画をようやく達成し、100年たった今3.3万人ほどで安定しつつ維持されています。都市はゆっくりと成長していると、小さなゆがみや多少の不調和はいつの間にか吸収され無理な状況や現象は見えてこないのですが、多摩ニュータウンの場合は一挙に同一世代を集めてしまったことで無理が生じています。
特に開発初期の地区では、高齢化と大量のバリアフリー改善が困難な住宅が大きな問題となってきそうです。エレベーターのつけにくい構造の建物は、高齢化する居住者には負担で、資金に余裕のある人は移転を始めていますが、移れない方はやむを得ず住み続けることになります。
地域相互の連担
市街地がドーナツ状に拡大していくという構図は、都市の発展にはありがちなことなのですが、こうした時間差をうまく組み合わせることで持続可能なまちづくりを進めることができます。その好例がアメリカの西海岸オレゴン州ポートランドに見ることができます。
材木の切り出し港として栄えたポートランドは、自動車の普及と共にバスなどの公共交通の経営を圧迫させました。都市の中心部は人口の空洞化と共に交通渋滞や治安が悪くなり、人々が普通に住み続けることができなくなっていました。そこでオレゴン州議会は、こうした状況を改善するために、倒産しかかっていたバス会社を買い取って、行政区域を越えてネットワークする公的なバス運営組織を作りました。
バス料金を安くすることで、自動車利用を抑制して大気ガスの濃度を下げ、都心部に車を入れないような仕掛けを考えました。路面電車を整備してパークアンドライド(途中駅で車をプールする)という方法や、中心市街地の空気をきれいにするために中心部での電車やバスは無料にするなど30年にもわたって画期的な運営を進めてきました。
写真2 車イス利用者も自力で乗り降りできる乗降路をもったMAX号。
写真3 スロープはドアの車イスボタンを押すと出てくる。
その団体はトライメット(TRI-MET)と言い、ポートランド市のみならず、ポートランド都市圏をネットワークする交通の要で、障害者や高齢者に対する移送サービスも公共交通の一つとして行う等、地域の基本的な交通インフラとして機能しています。
図2 ポートランドのトライメットのネットワーク図。
多摩ニュータウンでは京王バスや神奈川中央バスが運行していますが、身近な移動を支える交通網として、多摩市では「ミニバス」の運行が市民の足になっています。でもそれは多摩市の「ミニバス」ですので八王子には入ってこないのです。残念ながら多摩ニュータウンを生活圏としている人にとっては利用が限定的になっています。もっと生活者に密着したサービスが欲しいのですが、そのためには行政単位を越えた仕組みでの交通網が必要です。
持続可能な環境
環境都市として名高いドイツのフライブルグではいろいろな自然エネルギー利用が試みられています。酪農ではバイオガスで大規模団地の熱エネルギー利用を進めていますし、ソーラー発電は市のサッカー場の屋根に市民による投資で装置して運営するなど、自然環境と経済、さらにコミュニティの融合した施策を展開しています。フライブルグの場合は行政と市民が協力して、こうした展開を可能にしているのですが、住宅づくりにも市民の投資が行われている高齢者住宅があります。
写真4 自然エネルギーですべてをまかなっている施設の案内図。
その住まい作りの方法は日本では見られない供給システムです。住戸の所有関係で言うと、賃貸住宅と持ち家住宅の混在型で、賃貸住宅には公営住宅も組み入れられています。さらに、その住宅に対して、市民からの投資もできる仕組みになっていて、運営による利回りを配当するシステムが組み込まれていました。
写真5 フライブルグの高齢者住宅は市民の投資を利用した建物建設を進めている。
建物ファンドについては日本でも普及していくと考えられますが、高齢者住宅に対して市民自らが投資して建設運営するという考え方に、今後の多摩ニュータウンでの住まい作りのあり方を学んだように思います。市民が自分たちの親世代のために投資して居住環境を整えることで、自らが責任を持ったまちづくりが進んでいるのです。
土地の価値と住まいのあり方
多摩ニュータウンの土地は、最終的には細かく所有権が分かれますが、多くは団地単位で区分できます。だから土地所有の形は、区分所有法という法律に裏付けられた管理組合と、大量の賃貸住宅経営者としての東京都、公社、公団と、そのほかは小規模な戸建て宅地所有者となります。
分譲された土地は戸建て宅地を除いて、複数で構成される個人の土地ですが、合意さえあれば増築も建て替えも可能なみんなの土地です。ですから、これらの土地の活用は個人の利益のためではなく、みんなの利益のために使われます。つまり、複数の個人が構成する団地では個人の利益と集団の利益が両立することになります。これらを地域の経済システムとして体系化すると、レッチワースに見られるような不動産の運用による地域づくりも可能で、経済的に自立したひとつの都市を形成することもできるかもしれません。
ガーデンシィティ多摩の未来
多摩ニュータウンは昭和46年から多摩市域で入居が始まり、それから約10年毎の遅れで、八王子市域、稲城市域、町田市域という順に開発が進められています。開発が段階的に進んでおり、地域間の格差が生まれ、歪みも生じていますが、それらを相互に連携して補完することができます。
現在発生しはじめている多摩市域での高齢化への対策は、それらの資産を若い世代へ移譲することで高齢者の居住環境を改善することが可能です。その資産の賃貸料や売却益で八王子市域のエレベーター付きの住宅に住み移ることができます。つまり多摩市域での『不足』を八王子市域の『余剰』で補います。また、八王子市域から独立する若い世代は多摩市域のそうした住宅に住み、都心への時間短縮にも有効です。古い住宅ですから多少の改造も可能ですし、若い世代で増えているシェア住宅や個性的な住まい方も可能でしょう。
今後、多摩ニュータウンの人口配分は大きく波打ちながら均衡を求めることになりますが、これまで培ってきた社会資産を活用することで持続可能なまちづくりを実現させることができます。しかし、こうしたまちづくりは個々の行政や企業や団体だけでは難しく、複数の組織をつなぐ政策立案機構が求められているのではないかと考えています。将来へ向けて、NPO FUSION長池の住宅支援事業の進むべき方向性としては、この当たりではないかとも考えているのです。
参考文献
西山康雄『アンウィンの住宅地計画を読む』彰国社
福原正弘『ニュータウンは今』東京新聞出版局
川村健一+小門裕幸『サスティナブルコミュニティ』学芸出版社
資源リサイクル推進協議会編『徹底紹介「環境首都」フライブルク』中央法規出版社
参考サイト
レッチワース
http://www.letchworth.com
フライブルク
http://www.freiburg.de/
ポートランド
http://www.ci.portland.or.us/
――多摩ニュータウン経営と経済基盤――
2002.9
多摩ニュータウンの新たな動き
私たちが生活する多摩ニュータウン(以下:多摩NT)は、まち開きからすでに30年を経て、30歳代で入居した世代が60歳代になり、その子供たちも子育て期を迎えるようになりました。また、当初の住戸規模は40㎡台や50㎡台でしたし、部屋が狭く階段室タイプの建物ですから、成長した子供は親元を離れ、高齢者はバリフリー住宅に住み替えをする世帯も多くなりました。
しかし、団地単位でとらえると、初期の分譲団地は敷地がたっぷりあります。その利点を利用して建替などでキャピタルゲインを確保しようと言う動きもあります。一方、バブル期の分譲団地では買い換えが困難になっています。ですから住み続けるために居住環境の向上を目指してブロードバンド環境の充実、団地管理コストの低減など維持管理方法を検討し始めています。
こうした市民参加の動きに対して、行政の新たな支援施策も生まれ始めています。多摩市の「すまいとくらしのマスタープラン(平成14年3月)」では、団地管理組合に対しての人的、資金的支援策も具体化させています。これまでのコミュニティ支援や緑地環境保全などの施策に団地経営や維持管理に対して人的経済的支援を行おうという動きは着目すべきものがあります。
今後の多摩NTが持続可能な発展を遂げるためには、コミュニティや環境への視点とともに経済への的確な対応が欠かせません。「持続可能な発展」の概念は「環境と開発に関する世界委員会」の中で提唱されたのですが、多摩NT地域においても、グローバルな視点でとらえる「環境の維持」「社会的な発展」「経済的発展」が持続可能であることが基本的な考え方になります。
多摩ニュータウンの資産形成の経緯
分譲団地の管理組合は多摩NTの中では「大地主」です。住宅全体の約半分が分譲団地ですから、その敷地面積が占める割合も大きく、多摩NTの資産構成の大半を担っています。従って、団地管理組合の役割も大きく、単なる団地の財産管理を司る組織だけではありません。また、その資産も大変なものが保有されています。
たとえば最初に入居が完了した多摩市の諏訪団地(分譲団地)は640戸の大規模な5階建ての団地で、昭和46年(1971年)3月から5月の間に入居しました。全ての住戸が48.85㎡、3DKの狭小住宅ですが、当時の販売価格が約390万円、平米当たり8万円でした。それが現在でも中古価格が1000万円余りですから、投下資本の3倍に近いキャピタルゲインがあり、さらにこの団地は建坪率が12%を切り、容積率が50%余りの低密度の団地なので、方法によってはさらなる資産運用が可能な団地でもあります。
時代は進み、昭和48年(1973年)の第一次オイルショック、昭和54年(1979年)第二次オイルショックの低成長期を経て、すさまじい物価上昇を発生させましたが、低成長になることで住宅の質の向上が進みました。オイルショックはいわば住宅にとっては「量から質の時代への転換点」だったのです。その時期に開発が進んでいた永山団地に転換期の動きを見ることが出来ます。
多摩NT開発は、永山駅から多摩センター方向へ進んでいきます。そして、多摩市域を越えて八王子市へ開発は進み、南大沢地区での住宅供給が昭和58年3月入居に始まります。
やがて今度は大きな経済活動のピーク、バブル経済を通過することになるのです。昭和63年(1988年)から急速に盛り上がったバブル経済時期に分譲した団地についてはバブル崩壊によりキャピタルロスが発生しており、バブル期に住宅購入した世帯の殆どが、多くの負債を抱えている状況です。
こうした経済の動きは、居住者の意識にも影響を及ぼします。諏訪団地や永山団地の居住者は、各々が負債を持ってないだけにキャピタルゲインを最大限に生かそうと建替などの抜本的な再生を模索することになりますし、バブル期の負債を持っている団地の多くは、住み続けることのクオリティアップに努力し経費の削減を努力目標とするでしょう。
資産活用の時代
すでに開発計画の7割が進み、約19万人が生活している多摩NTでは、これまでに投資された多大な資産を有効に活用することが求められています。また、団地管理組合が積み立てた修繕積立金も相当の額に上っています。
昨年度のペイオフ解禁を機会にNPO FUSION長池と朝日新聞と共同で多摩NTの団地管理組合にペイオフ対策のアンケート調査を試みました。その結果、各世帯平均の積立金総額が約92万円、団地単位での平均積立金総額が1億4千万という結果になりました。最近のペイオフに対する国の方針が定まらないので対応が難しいのですが、将来的に見ると修繕積立金もペイオフの影響を受けるでしょう。
公的分譲団地だけでも2万戸以上ありますので、これに民間開発の団地も加えると、多摩NT全体の修繕積立金は、およそ200億円が積み立てられているという事になり、こうした資金を集めて活用しようと言うNPO FUSION長池のペイオフファンド(→プレスリリース)は大きな反響を呼びました。
団地の積立金は居住者が口を挟むことが出来る金融資産ですし、団地の敷地利用や住宅資産の活用についても、建替という大規模な事業から個々の賃貸住宅での不動産活用といった個人的なものまで、資産活用が十分に可能です。そういう意味では分譲団地の管理組合は、その資産をうまく活用すればいろいろな不動産経営が可能なのです。
たとえば階段がつらい高齢者に対して、団地内に管理組合自らが運営するバリアフリー賃貸住宅を建設すれば、近所づきあいを捨てなくても住み移ることが出来るし、家賃も自分の持ち家の賃貸料で入居することも出来るのです。余剰の土地がない場合は、集会所施設などの建替や増築などで賃貸住宅を建設することも出来ます。分譲団地内に賃貸住宅があれば、田舎の親を呼び寄せることも、世帯分離する子供の住宅としても利用でき、コミュニティを崩壊させることなく持続可能な団地づくりが可能になります。
国の予測では2006年に人口がピークを迎え、世帯数も2013年からは減少することが予測されています。こうした背景の中で、住宅は余ってきます。多摩NTにある住宅もまた取捨選択されて、求められるものは残りますが人気のない建物は空き家が増加します。人々の評価は安全性や快適性、経済性を求めて住宅を評価するようになり、住み続けられない団地は見捨てられる運命にあります。
八王子空襲と湯ノ花トンネル列車銃撃空襲
2002.9.10
今回は、八王子空襲という出来事を通し、改めて戦争の意味を考えたいと思います。
第二次大戦終結のわずか二週間前の1945年(昭和20)8月2日未明、八王子市はアメリカ軍B29 約170機による空襲を受けました。この八王子空襲は焼夷弾67万発により、旧市街地の約80% を焼失し、現在の八王子市域で約450名もの尊い命を失い、負傷者2千数百名を超える大惨事 でした。米軍は、3月10日未明の「東京大空襲」から大都市に対する爆撃を行い、6月中旬からは地方中小都市にターゲットを移していました。
現在の湯ノ花トンネル
今回の展示で目を引いたのは、「中央本線列車銃撃事件一長野行419列車と女子車掌たち」 のビデオでした。八王子空襲直後の8月5日、裏高尾町の中央本線湯の花トンネル付近で、列 車がアメリカ軍の戦闘機P51に銃撃される事件が起きました。2日の八王子空襲で線路に被害を受け、運転が再開されたばかりだったため、列車は長野、山梨の疎開地に向かう人で満員 で、死傷者は900名以上となり、列車銃撃事件としては日本最大の被害を出しました。(『八 王子の空襲と戦災の記録』によると死者52名,負傷者133名)
419列車が浅川駅(現高尾駅)に11時半頃到着したときに空襲警報が発令。P51戦闘機が編 隊で八王子西部を通過していった。湯ノ花トンネルまで4分の距離が惨事を招いた。今出発 すれば小仏トンネル,悪くても湯ノ花トンネルに入れると考えて列車は12時半頃浅川駅を出 発した。乗客たちは,きっと疎開先の家族のことを想い描きながら,昼の弁当をひろげてい たことでしょう。列車がトンネルへの勾配をあえぎながら上っているそのとき,八王子駅の 方から追いかけるようにしてきたP51に発見された。戦闘機は急降下して列車に対して銃撃 を数回に渡り浴びせた。鈴木美良さんは当時の惨状を次のように書き残している。
慰霊碑
「車両には足の踏み場のないほどのすさまじい血の海。貴重品や手荷物の散乱。 (中略)線路床に立った私は足がすくんだ。それは銃撃方向から反対の車輪の陰になるようにして、さらに車輪にしがみついて死直前のくるしみにあえぐ人たちが数人、おも苦しいうなり声をあげ、胸のあたりから黒い血液をどくどく噴き出すように流していた。(中略)でも哀しくも、 これらの人たちを救うすべは、私にはなかった。そして自分の全身を手でさわってみて、我が身の安全をたしかめた。線路わきの山林中には踵を撃ち抜かれた将校がいて、自力では少しも動けないようすであった。また腕を負傷した若い婦人が若者に手を合わせて、この子を ぜひつれて逃げてくれとたのむ姿もあった。七歳ぐらいの少年だった。」
戦争は常にこのような悲劇を引き起こします。戦争体験のない私たちの世代は,どのよう にして戦争体験を子どもたちの世代に伝えてゆけばよいのかを考えさせられる一日でした。
【参考文献】
『八王子の空襲と戦災の記録』
「人間と自然が共生する多摩ニュータウンのまちづくりを支援するNPO FUSION長池」
2003.1.22
多摩ニュータウンでのNPO活動
NPO FUSION長池は多摩ニュータウンの八王子市エリアで、平成元年から開発が進んだ比較的新しいニュータウンエリアで始まったボランティア活動から生まれたNPOである。その経緯については「多摩ニュータウン発 市民ベンチャー NPO「ぽんぼこ」(富永一夫著・NHK出版)」に詳しい、地域の団地管理組合や自治会同士のコミュニティ活動が母胎となったNPOとして、ニュータウン特有の誕生の仕方であり、そこでの暮らし全般を支えるNPOとして全方位に向けて活動し始めていることに特徴がある。
ニュータウンに移り住む入居者は、そこが新天地であるだけに既成のコミュニティがないだけに、風習・慣習にとらわれない反面、独自の生活環境に適応する作法を求め始める。もともと町内会的な組織もなく、祭りや行事を司るシステムもできていない中で、新住民同士のコミュニティの醸成など、新しいコミュニティ形成の実験場でもある。
こうした環境を何とか居住者の生活の基盤として恒常化するためには、全居住者が転入者長池公園を中心とした活動エリア既成の盆踊りではない夏祭り。団地やグループ単位で出店を出し、コンサートや演舞など観客と演技者が入れ替わる。
である地域の生活習慣を自らが進んで演出しなければならない。その為に自分たちのものさしで受け止められるような行事などを創出しなければ、地域で生き続けることはできないと確信した人々が動き始めたのがNPO活動の始まりであった。
折からバブル経済は崩壊し、経済高騰期に転入した多くの持ち家層は転居の自由を奪われてしまった。この経済変動の背景も、地域の居住者が定住を覚悟し、住み続けることに責任を感じ始めたきっかけでもある。会社人間であった多くの父親達はリストラなどで地域に戻ってきはじめ、居住地域でのサスティナブルな活動が始まっており、その中で多様な活動が孵化し始めている。
NPO活動の事業化への展開 NPO FUSION長池の活動は全方位に構えた活動 であるが、当初からすべてが事業化を目指した わけではない。地域が求める活動を、地域に貢 献しようと言う誰かが発案し次第に拡大させ ることで、やがて本物の事業として萌芽して行 くことになる。NPO FUSION長池の役割は、その 成長過程でコミュニティをバックにした柔ら かな包み込むような応援を行うことで確固と した生活支援事業に導くことにある。
生活支援事業にはあらゆる方位の支援事業 が生まれる可能性がある。しかし、活動地域は 新しい町であり、高齢化はまだまだ先の問題と して介護などのニーズは発生していないし、N POの得意技の介護事業もまだまだである。 こうした中で、多摩ニュータウンには大規模 な団地があり、とりわけ入居者が管理をしなけ ればならない分譲団地の管理は大変で、素人理 事が何とか対応しているのが現状であった。そ んな環境を何とかしたいと、NPO FUSION長池で は管理組合の理事長を糾合して情報交換を始 めた。クオリティやコストを考えて団地管理を 行うことは専門的な知識も必要とするものだ から、専門家を呼んで話を聞いたり、大規模修 繕の体験談を勉強したりと、定期的な勉強会が 始まった。今ではこうして集まった情報はホー ムページになり、「 住見隊」としての情報公開 のツールとして多方面の団地管理組合に共し ている。 この住見隊活動を事業化にまで高めること が出来たのはインターネット環境であった。 NPO FUSION 長池の会員は殆ど全員がeメールを 利用する。しかも、その活動の一つ一つのグル ープにメーリングリストがあり、共通の情報を 共有するグループ相互のコミュニティツール としてメーリングリストを多用する。結果とし て、各個人が複数のメーリングリストに加入し ていて、各個人の興味の中で多様な情報交換を 行っている。 メーリングリストの管理運営そのものは、地 域内で情報産業を起業しているSOHO企業 が支えたり、地元の大学のサーバーが担ったり、 ネット上の民間企業の無料ツールを利用した りと、そのグループ独自の場を設定しており、 これらを利用して常時、バーチャル上で情報交 換を行い、濃厚なコミュニケーションを利用し ている。 ちなみに筆者は 10グループ以上 のメーリングリス トに参加しており、 毎日、40通から5 0通のメールを受け止めている。
NPO FUSION 長池の活動拠点 1999年12月に特定非営利活動法人とし て登記してから2年半、2001年7月に「長 池ネーチャーセンター(八王子市立自然館)」 が八王子市立長池公園内にオープンした。そし て八王子市は施設の運営管理を NPO FUSION 長 池に委託をした。
自然涵養型公園として位置づけられた長池公 園の管理棟であり、地域のコミュニティ活動の 拠点的役割としての施設である。八王子市とし ては通常の競争入札という方法ではなく、NPO FUSION 長池を匿名した条例を成立させ管理を 委託した。 地域のコミュニティ施設を運営するNPOと して、NPO FUSION 長池は地域に根を下ろした活 動をさらに拍車をかけて進むことが可能にな った。多くの活動が、地域のイベントが「自然 館」を中心に動き、地域を訪れる人々の動きも、 自然館に糾合する流れが定着した。 社会的な信頼性も高まり、その10月4日の 「都市の日」には建設省(現国土交通省)が表彰 する都市景観大賞「美しいまちなみ大賞」を受 賞した。公と民が協力しハードとソフトを含め た総合的なまちづくりの取り組みが行われて いる地区として開発を担当した都市公団と維持管理する八王子市、そして地域で活動する NPO FUSION 長池の3者が表彰された。 こうしたことは、NPO FUSION長池が地域のコ ミュニティ活動の求心力であることをさらに 顕在化させ、長池ネーチャーセンターを中心とした顔と顔が見えるコミュニティエリアでの 活動をより結束の堅い活動へと進化させてい った。一方、多摩ニュータウン全体を捉えた支援事業は、広域での社会的な役割を担う事業活 動への棲み分けを始めている。地域のボランタ リーな活動から広域的な社会的な役割を担う 組織として、NPO FUSION 長池は新たな展開に向けて出発する段階に至っている。
多摩ニュータウンの過去と現在 NPO FUSION 長池の事業活動の対象エリアであ る多摩ニュータウンは、1971年(昭和46 年)に多摩市の愛宕団地や永山団地から入居が 始まっているが、大きな開発の流れは多摩市を 皮切りに八王子市、稲城市、町田市の順に進ん でいった。
1969年(昭和45年)に住宅建設が始まって、1973年(昭和48年)の第一次オイルシ ョック前の時代に着手した開発は、「 高遠狭」 に揶揄されるように、小規模な住戸をベースとした開発であった。永山団地がそれに当たるが 敷地は広く、緑も豊かである。 それがオイルショック後の昭和50年代は急 速に住戸面積は拡大し、質的にも良好な住宅供 給が始まっていった。いわゆる「量から質への 転換」であるが、次第にライフスタイルやライフステージといった世帯の住ニーズを住まいの形態に関連させる個性的な住宅づくりが始 まった。その動きはごく最近まで、公団の住宅 供給が押し進めてきた施策として、多摩ニュー タウンには広く良質な住宅が配置されている。 ところが、今度はバブル経済崩壊により東京 都や公団の保有する公的な用地は民間に売却 され、大量の民間マンションが販売されること になった。処分を急ぐ東京都や公団の土地を安 く提供されることで市場原理に従った「売れ る住宅」の大量販売が始まった。 周辺相場より割安なマンションは飛ぶよう に売れ始めたが、新たに開発するマンション は価格をさらに低減し、マンション価格の低 下も始まっている。特に中古市場の低下は顕 著で、バブル後のマンションブームが始まっ てからの価格減はすでに20パーセントを越えている。 民間の相次ぐ大量供給の中では、既存団地 の建替などの動きも、掻き消されてしまうほ ど多様な販売戦略で入居者を募っている。多摩市域では初期の団地の建替を巡って検討を 重ねているが、なかなか事業的に成立してい ないのも、民間のマンション供給の勢いに勝てないことからくるものである。
地域ニーズから生まれる開発動向 初期に開発が始まった多摩市エリアでは居 住者の高齢化とともに世帯分離が進んでおり、 高齢者のみ世帯の顕在化と建物の老朽化が並 行して進んでいる。エレベーターのない団地 に居住する高齢者をターゲットに、未利用地だった小規模な空き地や廃止した施設にマン ション開発が始まっているのも、地域での継 続居住を支えるサポートでもある。 居住者主体の経済活動が可能か また、大規模に供給されているマンション開 発も、多摩ニュータウン内での住み替えを望ん でいる世帯への支援となっている。当然、新し いマンションはエレベーターを設置し、高齢化 対策は万全だし、家族の成長変化にあわせた間取りの変更が出来るシステムや好みに応じた 間取りの変更などのメニューを駆使して、より使いやすい住宅が供給されている。 一方、大量の賃貸住宅を抱える公団住宅では 既存団地の設備改善や高齢者世帯へのバリア フリー改善など、ストックの長期活用に向けて、居住者のニーズに対応するよう住宅改善を全 面的に進めている。既存の分譲団地の居住者も 台所や浴室といった設備の改善や間取りを変更するなどの改善を行い、住み続けることの努力をし始めている。 こうした住宅ストックの活用は結果として地域に継続居住したいとするニーズに対して柔 軟に対応出来ることになる。住宅ストックのみ ならず小学校や中学校の余剰教室の利用によ り高齢者の施設として利用したり、近隣商店街 の空き店舗を利用したコミュニティ活動の場の提供など、地域のニーズに柔軟に対応した動きがある。 「多摩ニュータウンは老朽化と高齢化が問 題」と報道もされ、外部からの大方の認識はそ うであるようだが、実際には小さな動きではあるが、地域をホットスポットとする芽生えが少 しずつ育ってきている。これらの小さな改善や開発の動きは、地域の居住ニーズに反応しての発生であり、必然的な動きであり新たな活性化への序章であるとも考えられる。 多摩ニュータウンで住み続けるための動きは 必ずしも開発者の側からの提供ではなく、居住 者自らが開発に携わる動きも出始めている。こ れは先の団地建替の動きのみならず、各々の団 地での大規模修繕などの動きに伴ってエレベ ーター設置の検討を行うなどに現れている。分譲団地も開発が終わると、その所有権は細分化され個人の持ち分に分かれるが、実態は区分所有法の中で団地を単位として活用されることになる。従って分譲団地の場合、土地利用 の権限は管理組合が主体となり、建替も増築も 管理組合の権限になる。つまり、大規模な賃貸 住宅団地の家主である公団や公社、東京都など の賃貸住宅経営者と同様に、管理組合の決議さ え行われれば、その土地や建物の活用は自由に 選択できることになる。あたかも大地主として団地経営をしているようなものである。 複数の個人が構成する団地では、あたかも大 きな社宅を抱えている会社のようでもあり、社宅やその用地をどのように生かしていくかは 管理組合の才覚に左右されるほど重要なものである。これらの資産を糾合して地域の経済システムとして体系化すると、ニュータウンのモ デルであるイギリスのレッチワースに見られ るような不動産の運用による地域経営も可能になるであろう。
多摩ニュータウンの未来 現在、発生しはじめている多摩市域での高齢化への対策は、それらの資産を若い世代へ移譲することで高齢者の居住環境を改善することができる。高齢者世帯は、その資産の賃貸料や 売却益でエレベーター付きの住宅に住み移る NPO・FUSIONの誕生 ことができるし、子育ての終わった世帯の都心 回帰も増加している。一方、子育ての為に良質 な居住環境を求めて独立する若い世代には、多摩市域の熟成した街に移り住み、利便性の高い 環境を比較的安価に手に入れることが可能になる。購入する家が古い住宅だからリフォーム して個性的な住まい方も可能になるので、自由 度も手に入れることが出来る。
8割以上が住み続けたいとする多摩ニュータウン居住者の分布は、未利用地などの開発の動 向と居住者ニーズによる移動により多摩ニュ ータウンの中で人が循環する流れが生まれると考えられる。例に示したレッチワースのまち づくりが100年を経過していることからす ると、多摩ニュータウンはまだまだ30年の歴 史である。これまで作り上げてきた住宅や生活 基盤である社会資産を活用することで持続可 能なまちを育てることに緒がついたばかりで もある。 こうしたまちづくりは分割された行政区、利 益主導の企業、保護主義の団体だけでは難しく、 こうした組織と市民を繋ぎ、責任を持って主体的にまちづくりを薦めるネットワーク型の支援事業が求められている。
NPO・FUSIONの誕生
NPO FUSION 長池の活動は「自然館」を拠点に活動を進めているが、多摩ニュータウン全域から見れば八王子市の一部の区域であることに代わりがなく、これまで事業活動として動いてきた住宅管理支援事業「住まい見守り隊(住見隊・すみたい)」 や住宅づくり支援事業「コーポラティブ住宅づくり(夢見隊・ゆめみたい)」、高度情報化支援事業「高支隊・こうしたい」の他、今後活動を進めたいと考えている地域交通支援事業「(仮称)足守隊・あしまもりたい」についても、むしろ多摩ニュータウン全域をベースに活動することが望ましい。
このような背景を受けて、広域的な事業性の高い活動について、NPO FUSION長池を存続させつつ、より広がりがある新たなNPO法人「特定非営利活動法人NPO・FUSION」を立ち上げて、多摩ニュータウン全域で活動することとした。
計画的に徹底して作り上げられた緑豊かな多摩ニュータウンが未来に向けても尚、人間の居住にふさわしい地として活力ある街として生き続けるためには、経済的にも自立し、持続可能な環境を持ち、コミュニティのしっかりした地域を作り上げることが大切である。
そこがふるさとであり、そこが死に場所であるとして住み続ける場であることが求められる。
かつて地域で住み続けるためのネットワークを支えるために法人化の道を選択したのが 「特定非営利活動法人 NPO FUSION 長池」の始 まりであり、この活動を地域の求めに応じて多 摩ニュータウン全域にまで広げ、ニーズを受け 止めようとしているのが「長池」という地域名称をはずした「NPO・FUSION」である。 基本的には同様なコンセプトを持っているが、NPO FUSION となっても、あくまでも人と人 を繋ぎ、地域相互を繋ぐ役割として、黒子とし て活動していく特定非営利活動法人であることを付け加えておく。
谷合和雄さん/地域の農業とともに
2004.3.12
谷合和雄さんは、堀之内にお住まいで、さまざまな地域活動を熱心に展開 されています。1940年生まれで、旧読売テレビスタジオの京王線の高架 近くの場所が昔のお住まいだったそうです。当時は辺り一面は畑と田んぼば かりで、どじょう、ふな、しじみがいたそうです。大栗川は今より多くの水 量があり、泳いだりして遊んだそうです。その後谷合さんは、家の農業をつ づける傍ら、旧国鉄に長らく勤務をされていました。そして、20代の頃に 多摩ニュータウン開発もはじまり、ふるさとの変貌ぶりを見守ってこられま した。現在、谷合さんがかかわっている活動を以下ご紹介したいとおもいます。
環境に優しい農業の実践により里山を守る「里山農業クラブ」の副会長を されています。昨年6月にNPO法人となり、会員は26名だそうです。堀 之内寺沢の宮嶽谷戸(みやたけのやと)で田んぼ13枚(1700㎡)を借 りて、由木武蔵野幼稚園、由木中央小、南大沢小、秋葉台小の4校約300 人の子どもたちが昨年は「田んぼの学校」として、田植えや稲刈り体験した そうです。なかには、ふりかけをかけなければご飯を食べなかった子が、精 米したてのお米を持ち帰り、家でご飯を炊いて食べたところ「なにもかけな くてもお米がには味がある」という子どもたちの作文を手にして谷合さんは うれしそうに田んぼの学校のことを話してくれました。また、地元農家の野 菜の普及・販売を目的に、ニュータウン通りに面したご自宅の角の所に無人 販売を試みられている。夏は月・木の週二回、冬は木の週一回行っていま す。「他の所では、お金をおいていかない人もあるので、やめてしまうとこ ろもあるそうです。ところが、ここでは、ちゃんとお金があうんですよ。」 とニュータウン地区の人のマナーの良さに感心をされていました。買いに来る人から、「これまで子どもが野菜が嫌いだったけど、ここの野菜は甘くて好きになった」という話を聞くと、励みになるそうです。
谷合さんのお住まいの町会はニュータウン通りを夾んで大栗川までの「堀 之内三丁目町会」になります。町会で「町内美化行動委員会」をつくり、第 3日曜日の9時から清掃・ゴミ拾いの活動を行っています。始めた頃は、役 員だけの参加でしたが、現在ではマンション住まいの新しい住民の方も参加 するようになり、毎回30~40人の方が参加しているそうです。また、昨 年秋に警察から最近治安が悪くなっているという話を聞いたので、地域の安 心・安全は地域で守る必要があると考え、町内会で「パトロール隊」を結成して「8の日」に10名前後で町内を巡回しているそうです。最近、八王子 市内では不審者に関する情報が多数流れていることもあり、小さなお子さん をお持ちの家庭ではとても安心されることと思います。
最後に、多摩ニュータウンの総仕上げともいえる「19住区」についです が、野猿街道のさらに北側の丘陵地区です。その西山地区には、既にブルトーザーが入り、山が削られ、宅地の造成工事が行われました。まだ手が付 けられていない、東山については、ふる里の山の地形や谷戸を出来るだけ残 し、「農業公園構想」を活かした街を作ってほしいことを「19住区街づく り住民会議」を通じて活動されています。まさに、この土地に移り住む人は むろんのこと、その子どもたちも住み続けられるような街であってほしいと 谷合さんは語っておられました。
筆者の私も、町会の皆さんがニュータウン通りを清掃や巡回されている姿を見かけたことがあります。とかく、新しい住民の人は地域活動に余り参加 されないのですが、「街をきれいにするという、みんなが思っていること、そして気軽に参加できる活動」を行うことによって、地域の人が誰でも参加 するようになると言うお話は地域活動の重要なヒントを谷合さんからいただ きました。
吉田定一翁/鯉の吉田
2002.5.29
鯉を飼うのは大きな川の河口と相場が決まっているが,多摩丘陵の山のなかで鯉を飼い, 地域経済に貢献したアントレプレナー(起業家)が松木にいた。
「多摩丘陵の中で四十年余年,鯉を飼って成功者となった人がある。吉田定一がその人 だ。奇蹟のような存在で,現在「八王子七不思議」の一つとなっている。業界では「東京の吉田」で,地方では「鯉の吉田」で通っている。これをみても,人を得れば,一見不可能と 思うことが可能になるということを知り,大いに意を強うする。」これは地方文化研究会発 行の『鯉の吉田』(1965年)という冊子の書き出しで,橋本義夫氏が執筆している。今回取 り上げる吉田定一翁は松木の吉田観賞魚販売(吉田俊一社長)の創業者です。定一翁は1891 (明治24)年に生まれました。父定次郎氏も新しいことが好きな人のようで,天然理心流の 剣道を習って近藤勇の門人となり,新撰組に入った。そのような時代に立ち向かう気性を受 け継いだ由木人の典型的な方といえます。
定一翁は,アメリカ渡航を計画したり,東京で運転手をしたり,朝鮮に渡り一旗揚げようとしたり,明治の青年特有の波瀾万丈の青年期を過ごした。帰郷した後呉服の行商をはじめ,呉服商を三十年されました。定一翁に転機は意外なところからやってきた。一つは,当 時の村長の青木金太郎氏から「掘抜き井戸」を勧められ,早速自宅の庭に掘ったところもの すごい勢いで噴水した。二つ目は,農事試験場の場長佐藤信哉氏との出会い。地の利と人の 利を活かせるかが,業をなす人とそうでない人との違いかもしれない。松木で鯉を飼う人を集め「松木養魚組合」を組織し,前々回述べた先輩井草甫三郎氏を顧問として出発した。は じめは三十坪ほどでしたが,井草氏が水田一反歩を提供し事業を拡大した。
村政でも活躍をした。1938年村議,翌年議長になり七年間その職にあった。村議長時代 に,青木茂助,大沢昌寿の両村長を助け無医村に診療所をたてたり,中山,南大沢の道路改 修,小学校の新設に努力された。当時南大沢は電気がなかったが,電気をひくことに尽力さ れたようだ。当時無医村だった村に診療所をたてた功績は大きい。定一翁の3男広氏のお嫁 さんになる八重子さんは「お医者さんの往診の際には自分の自動車を提供して回ったんですよ」と昔のことを懐かしむように話して下さいました。
「辛抱強さと積み上げがこの人の生き方だ。情熱はすぐに燃え切ってしまうものだが,いわ ば静かな情熱といったものがある。」と橋本氏は定一翁のことを述べている。至言である。
【参考資料】
「鯉の吉田」 地方文化研究会発行 1965年
石井善蔵翁/由木乗合ことはじめ
2002.2.24
昭和のはじめ、由木街道を由木村と八王子を結んで「由木乗合」が通っていました。野猿峠バス停のすぐ側に古びた水呑場があることをご存じでしょうか。峠越えの牛馬に水を飲ませた所です。
由木乗合の創業者の石井善蔵さんは、その野猿峠を南に下った由木村 中山の出身で、家は農家でした。当時の農家の副業として,由木村の西 半分は筵づくりが盛んでした。石井善蔵さんはその材料となる藁を各地から買い集めたり、でき上った筵を卸屋や農家に届けたりする運送屋(馬 力引き)もやっていたそうです。日用品の購入をはじめとして、八王子へ 出ることの多い村の人達にとって、野猿峠越えは誠に不便でした。八王 子へ出る足が何とか欲しいそんな村人の願いをかなえるべく、また生ま れながらの事業意欲も手伝って石井さんは乗合事業を計画されたようです。
待望のバスが発車したのは昭和4年7月,下柚木(由木小学校前)~八 王子郵便局前(横山町郵便局前)間でした。最初の車両はフォード社の中 古の幌型車一台で,料金は八王子まで35銭、一日9往復運転でした。 数年後には横山町郵便局前から八王子駅北口まで延長されました。ついで昭和8年由木村堀之内~堺村相原坂下間(のちに相原駅まで)が新たに開通し,京王線,中央線,横浜線の駅を結ぶことができました。村の人口が少なく、従がってバス利用者も少なく、苦しい経営がしばらく続きましたが、「開通が契機に由木に郵便局もできたんですよ」と村へのも少しはできたと石井満さんは義父のことを話してくださいました。
昭和12年、日華事変の勃発によってさらに戦時色が強まり、陸上交 通事業調整法ができ統制経済が強められるなかで、由木乗合は京王バス (京王電気軌道)と合併しました。石井さんの生まれ故郷,中山へバス路 線(京王帝都バス)が開通したのは,昭和36年でした。皆さんも,先 人を偲び南大沢から八王子行きのバスに乗ってみませんか。
【参考資料】
長沼町・北野町わが街 清水正之 温故堂
八王子のりもの百年史 清水正之 温故堂
井草甫三郎翁/明治のベンチャービジネス
2001.10.22
現在堀之内寺沢地区では牧場のおっさんはじめ4軒の酪農家があります。今回は、多摩地区における酪農はここ松木より始まったことのお話しです。この事業の先頭に立って活躍されたのが由木村の井草甫三郎翁でした。翁は、明治2年に生まれ、 昭和26年83歳でなくなるその生涯を通じて、「一牛よく家 を興し村を守る」ことを実践されました。
翁の父孝保氏は野猿峠にトンネルを殿が谷戸・長沼間に掘ることを試みました。トンネルを貫通させたものの多額の借財を 残しその負債を受け継いだ翁は家運挽回のため質屋を開き、養蚕を行い、豚を飼うなど鋭意努力されたようです。その結果、 蚕が食べ残した桑の葉のリサイクルとして酪農を考えるようになりました。つまり、無限にできる草で乳牛を飼い、その糞尿 を肥料として施し農産物を増産させ、牛乳を生産する酪農こそ 家や村を興し、国家永遠の繁栄の基であろとの確信を得たのでした。今日はやりのリサイクル、ゼロエミッション、ベン チャービジネスを既に実践されていました。
明治25年に子牛を千葉より入れて以来,この道沿い町田, 八王子は酪農のメッカとなり,多摩のシルクロードはまた,多摩のミルクロードとなりました。大正9年に「南多摩畜牛組合」が、翁の骨折りで結成され、牛乳の生産から販売までを 「多摩牛乳販売、購買組合」の「多摩牛乳」として一元化に成功し、生産から販売いたる協同組合方式を確立されました。また、大正8年にはバターの製造販売も始めています。
井草翁は、このように優れた事業家だけでなく、政治家とし ても地域に尽くされました。翁は明治末年と大正末の2度由木村村長になっています。大正末、由木小学校は松木の高台にありました。それが大正14年1月の雪の夜に火の不始末から全 焼してしまいました。そのため小学校の敷地選定と建設問題を 解決するために井草翁は再度村長に就任しました。重大な問題を解決できるのは翁しかいなかったのです。
このように翁は、「先ず信ずるところを自ら実践し、その成 果を確認した上でそれを近隣郷土に普及させ、当時貧しい農村 を振興させようと不動の決意をもって酪農に取り組んだ」(井 草甫三郎伝)のでした。翁が牛を買い入れて一世紀以上経過しましたが、寺沢地区では酪農がつづけられています。
【参考資料】
「由木村はわが故郷」小柳鹿蔵
「井草甫三郎伝」多摩酪農農業協同組合
「井草家をめぐることども」
宮崎利吉先生/由木村における教育の原点
2001.4.12
◆由木の教育の原点
春は卒業・入学シーズンでですが、八王子市内のニュータウン地区には小学校(由木中央,東,西を含め)は17校,中学校8校あり,小中学校あわせて1万人を越える子供達が学んでいます。別所小学校は八王子一のマンモス校となっています。地域をつくることは, 人を育てることであるかと思いますが,私たちの先人達は,そのために大変な努力をされ てきました。今回は、この地域の教育の<原点>をたどりたいと思います。
明治5年は新橋・横浜間に鉄道が開通した年ですが,その年に学制が発布され,全国に 学校がつくられました。この地域でも,大塚村に生蘭尋常小学校が創立。翌6年には上柚木村 に生倫尋常小学校,鑓水村には鑓水尋常小学校,明治12年には堀之内に誨育尋常小学校が 創立されました。年代は不詳ですが,松木村には松枝尋常小学校が創立されていました。 明治12年の記録によりますと,誨育小学校を除く4校の生徒数は合計277名,教員数は9名 でした。明治22年に由木村が合併成立したときの記録では,村の総予算は1265円55銭で あったのに対して,小学校5校の教育予算の合計は630円66銭でした。村の予算の実に半分 を小学校の教育に投資していたことになり,当時の人の教育にかける意気込みが伝わってくる思いがします。
さて,学制発布以前に鑓水では地域の人の手によって学校がつくられていました。「共立学舎」とよばれるものです。生徒は5名で,二十歳前後の青年たちが学ぶものでした。 その後学制の発布により,私立から公立の共立学校となり,児童が学ぶ先述の「鑓水学校」に発展してゆくことになります。故小泉栄一さんの「春秋・鑓水学校」(多摩文化19号)には大変興味深いことが書かれています。明治6年の全国の就学率は男子39.6%,女 子15%に対して,鑓水村では男子72.7%,女子22.5%となり,就学率が高かった点です。 さらに,村が豊かであったこともあって,生徒の授業料はありませんでした。
◆宮崎利吉先生
この鑓水学校に宮崎利吉先生という方がおられました。今回は、宮崎先生についてお話をします。(ただ今回は、時間がなかったために、関係者への聞き取りが残念ながら出来 ませんでした。お許し下さい。)先生は,慶応2(1866)年、多摩丘陵の鑓水村坂木谷戸に生れました。この地は、幕末から明治時代にかけて絹、養蚕関係の先進地であり、豊かで、教育熱心な地域でした。先生は自由奔放な青春時代を過ごされたようで,明治16年鎌 倉師範を中退することになり、「鑓水学校」の授業生として奉職され,21年には訓導を拝命しています。さらに34年に校長に昇任しています。ながらく一人だけで鑓水学校の先生をされておられ,鑓水学校を代表される先生といえます。
宮崎先生から学ぶべきは,子供達の先生であったばかりか,社会教育,地域全体の教育 に尽力されたことだと思います。当時の小学校は今日の小学校とちがって、村の唯一の教育機関で、青年教育や、地域産業および村のこと全体に深く関わっていました。明治25年の「幻灯器購入」の文に、その一端をうかがい知ることが出来ます。幻灯機購入は子供達の視聴覚教育のみならず、「青年教育のために」と記されています。しかも地域の青年会が発起者となり,学校予算ではなく地域の人々83名の募金により購入しました。幻灯機は,学校児童のためばかりでなく,一般村民の娯楽として利用し,さらに他校 他村から依頼があれば出張上映もされたようです。今日で言えば、家庭、地域と学校との 連携とよくいわれますが、まさに昔の学校は地域の学校でした。
当時の幻灯機は、今日で言えばパソコンやプロジェクターの情報機器になるでしょうか。パソコン配備のまだされていない松木小学校、別所小学校、下柚木小学校では地域の方々によって情報機器やネットワークの整備がされています。まさに100年以上前にも同 じように地域の人々が子供達を含む地域および学校を中心とするコミュニティのために尽力をされていました。
また同年に鑓水学校は、「農業補修科」が併設されました。産業組合育成にも努力され たようです。明治42年、文部省は各府県の小学校一校を選んで模範校としましたが、東京 府全体から、この鑓水学校一校が選ばれて模範校ともなっています。
さらに先生は,太白堂門下として俳句もたしなまれ、桃窓と号されていました。鑓水の 文化の香りをうかがい知ることが出来ます。そのように多方面で活躍をされた有能な方でしたが、大正2年多くの人々から惜しまれながらも48才で亡くなりまた。先生の死後60 年、記念碑が建てられました。
庭先に茶を摘んでいる留守居かな
夕鐘を聞かねど花の月夜哉
参考文献:
「鑓水学校」小泉栄一(『多摩文化』19,20号)
『由木村はわが故郷』小柳鹿蔵
『八王子の教育百年』
2001.1.6
私たちの郷土としての多摩ニュータウンの八王子市の地区は旧由木村の区域でした。 明治22年に市町村制が施行され、西から鑓水、上柚木、中山、下柚木、南大沢、越野、 松木、堀之内、別所、東中野、大塚の旧11村が合併して神奈川県南多摩郡由木村となり、 大沢信重さんが初代村長となりました。その後昭和39年8月、八王子市と合併し、今日に至っています。
この新シリーズでは、私たちの生活舞台の「原風景」として の由木村を訪ね、そこで活躍した「人」に焦点を当てて紹介を してゆきたいと考えています。
この由木からは極めて傑出した人物が多数輩出されてきました。幕末には,鑓水商人と呼ばれる生糸商人が輩出したことは あまりにも有名です。明治25年に井草甫三郎さんは郡下で最初 の酪農を始めました。大正末には,関戸駅(現聖蹟桜ヶ丘)か ら由木村を通り橋本駅までの鉄道を構想し,昭和2年に南津電気 鉄道株式会社が設立されました。(その後工事は途中で中止されました。)昭和5年には,石井善蔵さんは自費で中古バスを購入し,由木と八王子市間の乗合バスを運行させました。自分たちの力で、鉄道や、バスをひいてしまおうなどと考えてしまうところに、由木人気質をみてとることが出来ます。
しかし、どうしてこんなすばらしい人物がこの由木から生まれたのでしょうか。その理由のひとつとして多摩丘陵という地 形的要素があります。多摩丘陵は豊かな生活資源を提供しして きました。水田、畑地、山林の割合はおよそ1:3:6となり,年間を通じての労働を可能にしました。しかし、それと同時に水 田単作地帯ではないことから、副業が必要となりました。現金収入を求めて,直接市場経済と結びつけた副業の存在が由木人独特の気質を形成することになったと私は考えます。
自分たちの地域をこよなく愛し,発想・行動力に溢れ,グローバルな視点で生きた郷土の先人の足跡を読者の皆さんとと もに学びたいと思います。資料・情報の提供をお待ちしています。









撮影 箕輪忠治氏


越野の電話局よりビニール温室が並ぶ

左の切り土の処が現在南大沢に続くバス道路 下柚木・上柚木、前方に多摩美術大学

日影堀之内よ萩神社隣山林より別所山林まで中央の森は南八幡神社、現在は森はない




大沢団地より出る道路





南大沢八幡神社入口より

八津入口より松が谷トンネル

鉄塔移転して学校用地になる

松が谷校庭の地滑り工事終了
